教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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千升乢/千升峠(15)

★★

千升乢(ちますだわ)の取扱説明書

どういった理由かは定かでないが、地図上から峠名が抹消されるケースがある。この峠も然り、いつの頃からか名無しの峠となっていて、原本たる地形図に記載が無いものだから、当然市販の地図にも反映されず、結果現場を往来する現代人は峠名を知らぬまま行政界を越して行く。実際に行き来する者の肌感覚では、勾配のきつい坂が待つ紛れもない峠道なのだが、紙上から本来の呼称を消し去られて久しい峠を意識する者は皆無に等しい。有耶無耶にされつつある現状とは裏腹に、沿線にはこれ見よがしに旧道の痕跡が見て取れ、スルーするのが罪深き如し存在感を醸し出している。この峠道に埋もれし史実に光を当て、本来得られるべき正当な評価を下すのが、我々に課された使命と考える。行き交う者の誰もが旧道の存在に気付きつつも、情弱により無関心を装わざるを得ない現況に終止符を打つ。

 

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◆旧道⇔公園連絡ルートとX状に交差する最古の車道

四輪の轍跡が認められる谷底を這う草道は、ダム堤体直下の公園広場で旧道から派生する連絡通路とX状で交差し、有耶無耶になりつつ巨石群に吸収され消え失せる。役目を終えた路上には桜が植えられ、あたかも現場がその昔から公園仕様にあったかのように装っている。

ダム直下の公園には巨大な日時計が置かれ、これを目当てに訪れる客も少なくない。ダム堤体同様に日時計もまた石で組み挙げられ、ビジュアル的に彫刻の森美術館の様相を呈す。ロックフィルダムに石組みの日時計だけでも一見の価値があるが、連絡路と交差する土道の前にそれ等は霞んで見える。

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◆ダム堤体直下の石垣に吸い込まれ消滅する最古の路

取り敢えず路が消滅する限界ギリギリまで単車を寄せてみる。その行為を目の当たりにした観光客は、この単車主は急斜面の石畳に単車での登頂を試みる気か?或いはロックフィルダム&マイバイクをいいアングルで収めたいだけ?と好奇の眼差しで生温かく見守るであろう。

どのような解釈であっても一向に構わないが、いにしえの路を忠実にトレースしているという解を見出せる者は、残念ながら皆無に等しい。この場所を訪れる九分九里の者が、公園の直前で交差する土道を意識しないし、その存在に気付いたところでどうこうなるものでもない。

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◆川底を這う初代の車道とダム堤体中腹で途切れる旧道

この僕とて格世代の路を検証した上で、線形等の少ない物証から導き出した解であり、般ピーに僕の一挙手一投足を正しく理解するのは至難の業だ。しかもその決め手となったのが、遠く離れた休乢での聞き取りで、もしも古老の証言が得られなければ、考察の域を出ない曖昧なレポに終始していたはず。

古老の証言という決定的な物証を後ろ盾に、黒谷ダム工区に於ける親子三代に亘る車道の変遷を白日の下に晒し、返す刀で陸上交通史に埋もれし江戸道由来にして当地初の車道となる力車道を、馬車道並みの認知度に引き上げる絶好の好機と捉え、初代黒谷橋と前後する古道の発見にいつになく鼻息も荒い。

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◆最下層に初代と中腹に旧道筋と堰堤上に現役の国道

この画像には江戸時代より連綿と続く峠道の変遷が全て収まっている。現代の路はダム本体の堤上と同じ高さを横切り、一世代前の路は手摺付の階段の起終点より山肌を横這いに進む筋道で、最も古い路が旧道と旧旧道を結ぶ連絡路がくの字に折れ曲がるダム底に位置する。

他のレポートでも再三に亘り述べてきたが、明治24年と25年に連続して発生した大水によって、川伝いの住民は完膚無きまでに打ちのめされた。橋という橋は木端微塵に粉砕し、途方に暮れながらも復旧の兆しが出始めた所に、無駄な抵抗と言わんばかりの仕打ちに、人々のヤル気はナッシング状態に陥った。

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◆湖の中心よりやや右寄りを初代の車道は伝っていた

二度ある事は三度ある。橋を架け直したところで、どうせまたすぐに流されてしまう。二年連続で歴史的大水を喰らうのであるから、沿線住民の悲壮感たるや半端無い。そうなると川の水量をコントールするか、自然災害が発生しても高みの見物が可能なほど道路自体を嵩上げするか、抜本的な対策は不可欠だ。

何ならその両方によって天災を克服する手もある。移動手段としてメジャーであった高瀬舟を運行する大河川と異なり、支流にして急流の足守川上流域での堰止めに対する抵抗は少なく、問題は近隣住民の金銭的負担の一点に尽きる。どこもそうだがダム建設は賛否割れるのが常である。

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◆旧道筋は豊水期以外は容易に線形を捉えられる

移転費用を元銭に余所で一旗揚げる者もいれば、先祖代々の地にへばり付いて徹底抗戦の構えをする者もいて、その構図は今も昔も大して変わらない。結果的に紆余曲折を経て昭和7年に初代黒谷ダムが完成するが、その竣工は同2年と僅か5年の急ぎ足で成立させた経緯がある。

大正13年に発生した歴史的大干害に端を発し、ダム建設に反対していた者も折れ、元号が変わる頃にはダム建設ありきで話はまとまりつつあった。それに先行する形で道路の嵩上げが実施されたのは、明治の晩年であると旧道の桜並木は訴える。凱旋桜が明治39年以前に馬車道の成立を示唆する。

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◆ダム堤体の裏側に破壊を免れた旧道筋の続きがある

日露戦争に於ける日本の勝利が確定した明治38年秋の翌春に、沿道に桜の苗を植えたであろう点と、同24〜25年の大水を機に道路の付け替えを意識した点を踏まえれば、明治20年代後半より同30年代にかけて馬車道が成立した事になる。

その経路が一般的には当地初の車道という扱いになるが、それ以前より車両による峠越えが成されていた事実から目を逸らす訳にはいかない。普段は湖底で息を潜めているが、渇水期にはその姿を露わとするに違いない。まさに幻の古車道だ。

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