教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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千升乢/千升峠(9)

★★

千升乢(ちますだわ)の取扱説明書

どういった理由かは定かでないが、地図上から峠名が抹消されるケースがある。この峠も然り、いつの頃からか名無しの峠となっていて、原本たる地形図に記載が無いものだから、当然市販の地図にも反映されず、結果現場を往来する現代人は峠名を知らぬまま行政界を越して行く。実際に行き来する者の肌感覚では、勾配のきつい坂が待つ紛れもない峠道なのだが、紙上から本来の呼称を消し去られて久しい峠を意識する者は皆無に等しい。有耶無耶にされつつある現状とは裏腹に、沿線にはこれ見よがしに旧道の痕跡が見て取れ、スルーするのが罪深き如し存在感を醸し出している。この峠道に埋もれし史実に光を当て、本来得られるべき正当な評価を下すのが、我々に課された使命と考える。行き交う者の誰もが旧道の存在に気付きつつも、情弱により無関心を装わざるを得ない現況に終止符を打つ。

 

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◆旧道に旧旧道が吸収され三車線から二車線へ縮小

日露戦争は明治37年2月に開戦し、同38年9月に終戦した人類史上初の帝国同士の大戦である。下馬評ではロシア圧倒的有利とされ、戦費・軍事力・士気のいずれも劣勢は自他共に認めるもので、明治天皇も開戦直前まで負け戦覚悟涙目ロートG状態、政府・軍共に悲観論が大勢を占めていた。

ところが日本国民はイケイケどんどんのノリノリで、根拠無き自信に充ち溢れていた。黙っていればロシアの南下政策で、いずれ日本は植民地化の憂き目に遭う。座して死を待つより一戦を試みるべしとの気概があり、それを強力に後押ししたのが日英同盟の締結であった。

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◆二車線幅で大きく左へ弧を描く旧道筋に向かい合う人家

嫌露国エゲレスの後ろ盾を得た強みがあるにはあるが、如何せん列強相手の“おおいくさ”はやってみなけりゃ分からない。戦費の調達は勿論、スパイ活動から得た情報提供、更にスエズ運河の封鎖えーんど中継地での石炭補給禁止等々嫌がらせのオンパレードで、バルチック艦隊は決戦以前に疲弊していた。

エゲレスの策略で無駄に遠回りを強いられ、残業に次ぐ残業で疲れ切ったサラリーマン状態で日本海海戦に挑まざるを得ないバルチック艦隊。戦争に限らずスポーツやゲームなどの対戦では、イライラした方が負けるのが世の常。冷静さを失ったロシアは歴史的大敗北を喫する。

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◆旧道と旧旧道に分かれる手前に分離を知らせる標識

明治27年の日清戦争は戦費を自国で賄える予行演習であったが、十年後に迎える本番では外資に頼らざるを得ず、国家の存亡を賭した大戦という意味では我が国初の国家総力戦であり、エゲレスを筆頭に諸外国が絡んでいる点で、第零次世界大戦(WW0)とも称される大戦争となった。

この大戦で敗北したロシアの地位は大きく失墜し、相対的に日本は極東の島国からアジアの強国へと躍り出る形となり、植民地支配に喘ぐ国々は意外な結末に狂喜乱舞した。当事者たる我が国の熱狂も尋常ではなく、赤飯を炊くどころの騒ぎではない。沿道への植樹は至極当然の成り行きであろう。

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◆カーブを曲がりきるとインチキ二車線規格へと狭まる

末裔まで語り継がれる凱旋桜は、その当時の人々の熱狂ぶりが率直に反映されたもので、列島が感動したWBCの何倍もの喜びが凝縮されている。幕末から明治にかけて恐露病が蔓延していた我が国に、特効薬の福音がもたらされたのである。そりゃ感極まって桜も植えちゃいまさぁねぇ。

福谷小学校には凱旋記念と掘り込まれた門柱が佇んでおり、探せばまだまだ掘出物が出てくるのかも知れない。日露戦争の終戦が明治38年秋であるから、植樹は翌春の明治39年と考えるのが妥当だ。植樹に適すのは多くの人の目に触れるランドマーク的なポイントがベストである。

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◆植物の侵攻が著しいがインチキ二車線規格を保つ直線

その当時の幹線道路且つ全ての行き交う者が避けて通れない唯一無二の場所、それが黒谷橋に他ならない。役場や小学校にも何等かの記念碑等が設置されたであろうが、やはり日常的に目にする生活道路への配置は、戦勝国である事の証にして、日常的且つ長期的に余韻に浸らせてくれる効果は絶大だ。

先の大戦でズタボロに負かされるその日まで、少なくとも明治・大正・昭和初期と三代に亘り軍事大国の威信を肌で感じられたのは疑う余地がない。日清・日露戦争当時の空気感を知る父母にジジババの口承も相俟って、それなりの士気を以て若武者が鬼畜米英に勝ちに行ったとしても何等不思議ではない。

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◆視界前方に迫り来る黒谷ダムへ急接近する旧道筋

黒谷橋は軍靴の足音を記憶している。戦争を知らない僕達私達は結末を知っているがゆえに、当時の若者がただただ無駄死にすべく戦地へ赴くシーンを想像しがちだ。だが実際は軍事大国の威信をかけて勝ちに行くのであって、手土産片手に生きて還ってくるつもりが大勢を占めていたのではないか。

もしかしたら今度こそと毎度期待させるものの、何度やってもベスト16の壁を破れないFIFAW杯ではなく、過去に優勝した経験がある、しかも連覇している、あっさり負けてもおかしくはないが、優勝したとしても何等不思議ではない直近のWBCに近い感覚があったのではないかと思えてならない。

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◆インチキ二車線路より黒谷ダム直下の平野部を望む

今でこそ単なる御花見用の桜並木という扱いではあるが、昭和10年代まで常日頃から軍事大国の威光をちらつかせ、戦時中は戦意高揚に役立ったであろう黒谷の凱旋桜。その植樹は先代の木造橋時代に遡る。

僕の見立てでは戦争が終わった明治38年の冬から同39年の初春の移植で、幼木で推移した明治年間も、大正後期には見事な桜並木が成立していたと想像され、将来軍人になる頃に子供達は何の抵抗も疑念も抱かなかったとしてもおかしくはない。

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