教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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千升乢/千升峠(4)

★★

千升乢(ちますだわ)の取扱説明書

どういった理由かは定かでないが、地図上から峠名が抹消されるケースがある。この峠も然り、いつの頃からか名無しの峠となっていて、原本たる地形図に記載が無いものだから、当然市販の地図にも反映されず、結果現場を往来する現代人は峠名を知らぬまま行政界を越して行く。実際に行き来する者の肌感覚では、勾配のきつい坂が待つ紛れもない峠道なのだが、紙上から本来の呼称を消し去られて久しい峠を意識する者は皆無に等しい。有耶無耶にされつつある現状とは裏腹に、沿線にはこれ見よがしに旧道の痕跡が見て取れ、スルーするのが罪深き如し存在感を醸し出している。この峠道に埋もれし史実に光を当て、本来得られるべき正当な評価を下すのが、我々に課された使命と考える。行き交う者の誰もが旧道の存在に気付きつつも、情弱により無関心を装わざるを得ない現況に終止符を打つ。

 

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◆一本松の診療所から三叉路にかけて専門店が密集する

かつての学び舎へと通じる一本松が聳える診療所の十字路、その前後には専門店がズラリと建ち並んでいる。ほぼ全てが営業を止めて久しく、元々何屋さんであったのかを察するのも困難な物件も幾つか見受けられるが、いずれも地元民相手の客商売で生計を成り立たせていたのは間違いない。

小学校から至近距離にある場所柄、当然駄菓子屋もあったであろう。コンビニは現道沿いにも見当たらないが、中規模のスーパーが一店舗構えている。大方の店が大なり小なり出店の影響を受け、昔ながらの個人商店や専門店から常連客が徐々に離れ、店を畳むのはどこも時間の問題であったろう。

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◆旧道筋では珍しくない解放感溢れる見通しの利く直線路

診療所跡の十字路から二、三軒間を置いて現れる三叉路、そこまでが商店街と呼べるエリアで、十字の前後100m程に店舗は密集している。一時代前はその範囲で全てが賄えたし、何等問題はなかった。しかしマイカーの普及により、人々はより魅力的な外の世界を知ってしまった。

昭和年間は地元の商店街で満足していた住民も、マイカーを持てば事ある毎に岡山市内や倉敷へと足を運ぶようになる。東京というブラックホールに全国の若者が吸い寄せられるように、市街地への買い物客の流出は止まらない。大規模駐車場を完備する大型商業施設への買い出しが日常に変わる。

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◆旧道筋より現国道沿いに移転した福谷小学校を望む

マイカーを止めて豆腐を買っていると、どけ!と言わんばかりにクラクションを鳴らされる。もうそんな生活には戻れない。近所の駄菓子屋に何台もの自転車が置かれていても、たいした障害にはならないが、軽とはいえ自動車が路駐するとなると、幅員に余裕のない旧道筋はたちまち支障を来す。

豆腐一丁干物一尾安心して買えない現実に、嫌気も差そう。軽自動車がママの足になって久しい。桶持参で徒歩や自転車でというスタイルは、とうの昔に過去のものとなっている。生活スタイルの変化は最早誰にも止められない。いつの間にやら各店舗には専用駐車場の確保が求められていた。

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◆豆腐屋だろうか道路を挟んで向かい合うかつての専門店

今更来客専用パーキングを設けたところで、売上が回復する見込みは無い。そもそもそれに当てる土地が見当たらないし、費用対効果の点からも?が付く。もっと言ってしまえば年々売り上げが落ち込み、設備投資など夢のまた夢。貧すれば鈍するの無限ループに陥っている。

その現象は当該地域特有のものではなく、全国津々浦々で散見される逃れようのない現実である。馬車や人力車の抵抗も空しく自動車に引導を渡されたように、時代の流れに逆らう事は出来ない。誰もが時代の要請に従うほかないのだ。最後の最後までガラケーで抵抗し続けた僕も、店員の説得に屈している。

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◆離合箇所を兼ねた郵便局と向かい合う立派な石垣の豪邸

便利だから一度使ってみて下さい。マタマタ〜。音声と通信と回線を分けてらっしゃいますが、スマホの定額プランにすればトータルで安くなります。言うよね〜。ほんと一度使ったらガラケーには戻れませんから。ホンマに?と疑いつつも契約書にサイン。

ほんまや〜!

結論から言おう。人は利便性を知ってしまうと、基本元には戻れない。徒歩で移動するのが当たり前であった人道時代に、車道の出現と同時に馬車や人力車が走り始めれば、乗ってみたくなるのが人情というものである。

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◆郵便局の前後は潤沢な敷地を有する大屋敷が連なる

それでも当時は一度試乗してみて、やっぱ徒歩移動で十分という者もいただろう。道路にしても車両にしても発展途上にあり、庶民には高嶺の花で必要性は感じられなかったからだ。ほぼ同時期に鉄道という公共交通手段が産声を上げたので、鉄道+徒歩が基本的な移動手段として定着したのも大きい。

当時の我が国では相も変わらず徒歩移動を常としていたが、彼の国ではT型フォードが爆発的に普及し、一足先に車社会が到来していた。戦後日本も高度経済成長期のマイカーブームにより、一家に一台そして今や一人一台という時代になり、新道にしても旧道にしても徒歩移動の者を見掛けるのは稀だ。

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◆幅広道+解放する私有地で大型車の転回も余裕

ディーラーに勧められるがまま試乗車に乗ったが最後、もう後には戻れない。一度旨味を知ってしまった者が、自身の欲望を抑え込むのは至難の業だ。今この瞬間当該地区から最寄駅や繁華街等へ徒歩移動する者など皆無に等しい。

だがかつては直近の足守駅まで10kmに及ぶ道程を歩くのが常識であった。人々は徒歩移動から一足飛びにマイカーに走ったのであろうか?違う。その過渡期に長らく地域住民の誰もが利用する公共交通機関があったのだという。

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