教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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若松峠(5)

★★

若松峠(わかまつとうげ)の取扱説明書

若松峠、市販のどの地図を広げてもそのような名称は刷られてはいない。勿論国土地理院1/25000スケールも例外ではない。北海道の峠を網羅する三浦宏氏のリストからもその名を拾い挙げる事は出来ない。果たして若松峠なるものは実在するのだろうか?答えはYESだ、それも国道の峠である。恐らく多くの者が気付かぬうちに素通りしている。僕もその一人だった、ある古写真を見るまでは。トンネルあるとこ旧道アリ、若松峠は道路業界の原理原則を再認識させてくれる尊い存在で、日常的に行き来する道にも何がしかのエピソードが有る事を教えてくれる。また煮ても焼いても食えなさそうな雑魚も調理次第でどうにでもなる案件で、取り扱う者の腕が試されるデリケートな物件でもある。だが若松峠から目を逸らす事は出来ない。太櫓越へのトライアル的立ち位置から、道路業界に身を置く者として避けては通れない。今宵知らないようで知っている若松峠の今昔を徹底追求する。

 

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◆コーナーを利した解放感のある明るい待避所

粉砕して久しい初代若松隧道。残念ながら我々はその容姿を二度と拝めない。だが世の中には白黒写真や絵葉書、風景画等の作品として記録され、一般家庭の蔵に眠っているとか、どこかの美術館で平然と展示されているという事例が多々ある。昨年僕は思いっきりそういう事案を目の当たりにした。

某峠道を越す乗合馬車のチケットが、ヤフオクに平然と出品されていたのだ。明治半ばに乗合馬車が疾走した決定的な証拠で、僕はゲットする勢いで入札に参加したものの、鍔迫り合いの末に競い負けた。だって1万円を軽く超えちゃったんですもの。紙切れ1枚に1万円、これを繰り返したら破綻しまさ〜ね〜。

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◆法面も路肩も自然由来の原始的な路が続く

但し、3万出しても入手したいと思わせるチケットがある。それがここ若松線に於ける乗合馬車の乗車券だ。町史は大正7年現在の北檜山と若松を結ぶ乗合馬車の存在を浮き彫りにしている。国鉄瀬棚線が開通する十余年も前から、この峠道を乗合馬車が行き来していたという事実がある。

大凡自動車道とは思えないきつい勾配と狭隘路、その実態と馬車道という僕の見立てには寸分の狂いもない。現代交通では有り得ないようなヘアピンが後押しし、随所にある待避所らしき膨らみは、車両同士の交換場所を意味する。即ちこの山道を確実に当時の現役車両が駆け抜けたのだ。

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◆倒れて間もない倒木が行く手を阻む

それを裏付けるのが道路トンネル大鑑の巻末に記載される一般道路都道府県別一覧リストで、そこには二級国道229号線のトンネルとして昭和初期竣工の初代若松隧道の名がはっきりくっきりと記されている。

若松隧道 延長76m 幅員5.5m 竣工S9

 巻末資料には昭和42年3月31日現在とある。二代目のトンネルが昭和48年竣工であるから、トンネル大鑑の発行年が遅延していたならば、初代隧道の詳細な資料は掴めなかったかも知れないと思うとゾッとする。

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◆いつ対向から軽トラが現れても不思議でない穏やかな路

僕がおおっ!思わず唸ったのは初代隧道の有効幅で、5.5mとは随分広いなという印象を抱いた。先代をよく知る地元の古老からは小さな穴と聞かされていただけに、実測値と見た目の相違にはそれなりのインパクトがある。幅員5.5mとは僕が通い慣れた出足平峠の梅川隧道と一致する。

一時期出足平峠をほぼ毎日のように通勤していた僕は、大型車同士が坑口付近で対向車待ちするシーンを幾度となく目にしていた。新トンネルが開通した今となってはそれは過去の風物詩でしかないが、当時は通行者の誰もが承知するいつも通りの日常的な一コマであった。

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◆頂上に近付くほど勾配は緩く良質な林道状態が続く

梅川隧道は一般車両同士の内部離合を許す上に、片側限定で大型車の通行をも許す仕様で、問題は大型車同士が八合った際に生じる限定的な障害である。梅川隧道と若松隧道は国道229号線という同一路線上にあるから、一時代前の狭い隧道で片付けられてしまいがちだ。

だが両者は似て非なるものである。片や戦後の経済成長期に建設された新参者で、片や戦前・戦中・戦後を通じて供用されてきた古参である。当時の道路規格や交通量が違い過ぎて、両者を単純比較するのはナンセンスだ。今後爆発的に車両の増加が予見出来る昭和30年代の隧道VS昭和一桁の古隧道。

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◆使われなくなって久しい余裕ある待避所

それがほぼ同一スペックで建造された点に身震いする。古老は初代若松隧道を小さな穴だと言った。しかしその実態は普通車同士の内部離合を許し、下手こくと洞内で大型車と小型車が擦れ違えた可能性すらある。有効高に50cmの差がある為、大型車&小型車の内部離合は厳しいとの見方もあろう。

ただ普通車同士の内部離合は確実に履行出来る訳で、その春秋に富む高規格ぶりを昭和一桁の段階で現出させ、当時の交通量からして過剰とも思えるスペックの隧道が竣成した事実に違和感を禁じ得ない。果たして主導した指揮官の目には、来たる自動車社会の到来が映っていたのだろうか?

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◆いつのものかは不明だが水溜りと化す四輪の轍跡

違う、彼等には明確なビジョンがあった。若松隧道の主たる使用目的が平和利用でない事は、当時を知る古老の談話からも明らかだ。“戦車が峠を越えるのに苦労した”砲兵部隊にとっての難所の解消、それこそが真の目的に違いない。

軍用路として真っ当に機能する道、それが若松新道に課せられた使命であったと僕は考える。結果として高度経済成長期に建設された量産型コンクリ隧道に比肩するスペックを誇る。それを誰よりも待ち望んでいた男がいる。あの水上だ。

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