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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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若松峠(2) ★★ |
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若松峠(わかまつとうげ)の取扱説明書 若松峠、市販のどの地図を広げてもそのような名称は刷られてはいない。勿論国土地理院1/25000スケールも例外ではない。北海道の峠を網羅する三浦宏氏のリストからもその名を拾い挙げる事は出来ない。果たして若松峠なるものは実在するのだろうか?答えはYESだ、それも国道の峠である。恐らく多くの者が気付かぬうちに素通りしている。僕もその一人だった、ある古写真を見るまでは。トンネルあるとこ旧道アリ、若松峠は道路業界の原理原則を再認識させてくれる尊い存在で、日常的に行き来する道にも何がしかのエピソードが有る事を教えてくれる。また煮ても焼いても食えなさそうな雑魚も調理次第でどうにでもなる案件で、取り扱う者の腕が試されるデリケートな物件でもある。だが若松峠から目を逸らす事は出来ない。太櫓越へのトライアル的立ち位置から、道路業界に身を置く者として避けては通れない。今宵知らないようで知っている若松峠の今昔を徹底追求する。 |
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◆昭和48年竣工と掲げられる若松トンネルの銘板 国道229号線と道道42号八雲北檜山線との交点に信号機は無く、今この瞬間もドライバー任せの状況が続いている。それは余程の事情がない限り未来永劫変わりそうにない。信号機オンパレードで一行に進まぬ札幌市街地からしたら夢のような話だが、一歩郊外へ出るとそれほど珍しい話ではない。 交通量を考えるとわざわざ信号機を設ける必要は無く、コントロール不要との判断に至った結果で、事実現場で10分程様子を見たが、国道は上下線合わせて十数台の往来に止まる。道道路線との右左折をした車両は僅か二台であるから、交通制御不要論は理に適った施策と言える。 |
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◆北側坑口も南側同様土管の如し無機質な面持ち 主要路線同士の交点に信号機が設置されていないのだから、近隣の集落を含めた沿線にも信号機は点在していないように察せられるが、若松の中心部に入るとあっさりと信号機を捉えた。市街地を東西に分断する国道に対する地域住民への一定の配慮が窺える。 道内を俯瞰すればどのような僻地にもセイコーマートが出店しているが、残念ながら若松には店舗が見当たらない。昔ながらの地域にある商店とAコープが日用品を供出するコンパクトな町で、エロ雑誌一つ買うのも顔見知りのおばちゃんの商店であるから、若者が高卒を機に札幌や東京に出たくなるのも頷ける |
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◆今の技術ならオープンカット出来なくもない高低差の峠 故郷を出て行く動機について異論の余地はない。ただ自身のルーツに関心を抱いた時、実家を離れる際の一歩は非常に重いものとなるだろう。ここ若松は古くからある地名でも無ければ、アイヌの呼称を適当な漢字で宛がった当て字地名でもない。恐らく多くの読者が直感的に連想するアレが母体となっている。 そう、東北は会津若松の若松である。戊辰戦争では新政府軍に徹底抗戦を図り、篭城の末に最後の最後まで抵抗を試みるも、同盟藩の相次ぐ降伏で支援を断たれた会津藩は、孤軍奮闘の末に白旗を挙げる。その際会津藩士の遺体が腐乱するまで放置された恨み節は、会津っ子のDNAに深く刻まれている。 |
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◆視界の先には瀬棚方面へと続く田園地帯が広がる その後一部の残党兵が蝦夷地へと流れ、箱館で再び新政府軍と一戦を交えたが、ここでも敗北を扮し明治新政府が国際的に認められる事実上の日本統治団体となった。箱館戦争の落ち武者がこの地に流れ着いた可能性も否定できないが、恐らく発祥は明治半ばの入植者募集に因る農民の移住であろう。 会津藩の重税に苦しめられてきた農民は、藩の瓦解に歓喜しその勢いを以てヤーヤー一揆を起こす。新政府はこれを意図的に鎮圧せず、農民の言い分に耳を傾ける事で寛容さを誇示し、官軍に対する会津民意の敵意の喪失に成功する。しかし農業環境は思っていた程劇的な改善は見られなかった。 |
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◆国道229号線と道道232号今金北檜山線との交点 元号が明治になりズタボロになった鶴ヶ城周辺の復興特需、並びに三島鬼県令の着任で会津三方道路の一大事業が展開されるも、道普請と称した半強制労働を強いられる事となり、形を変えた重税が課される一件にうんざりした住民の一部が、新天地開拓につき広大な大地を無償提供の誇大広告に飛び付く。 その当時はフロンティアスピリッツと称し一攫千金を夢見て誰もが渡道した日本版大航海時代で、ゼロベースで築く新天地への期待は膨らむ一方であった。それが大後悔時代の始まりであるとも知らずに。東北も冬はそこそこ寒いし同じ雪国だから大して変わらんべ、この読みの甘さを後々痛感する事になる。 |
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◆南側に現存するゲートで閉じられたトンネル以前の古道 入植者の移動経路は大きく分けて二つある。一つは日本海側から船で北上し主要港湾より内地を目指す者、もう一つは函館より発展途上の鉄道や馬車を駆使して分け入る者だ。ここ若松は瀬棚に近い事から船便を利用した割合が多いと思われるが、八雲経由で入植する者も少なからず存在する。 事実日進経由の路線は現在も主要道道として君臨する。路線名は八雲北檜山線で文字通り若松を経由する形で八雲と瀬棚を結んでいる。先駆者の多くは主に上記の二ルートから入植を試みた。それが対露政策の一環として開拓移民を根付かせたい思惑が見え隠れする政府の欺瞞政策の一環とも知らずに。 |
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◆路面には四輪が往来したであろう痕跡が認められる 広大な土地を無償提供という餌に釣られ移住した民間人は枚挙に暇がない。会津、千葉、愛知に福島と大凡北海道らしからぬ地名が道内各地に点在するのは、時の政府が仕掛けたギマンダーゼットの罠に嵌まったからに他ならない。 隙間風全開の安普請の家で迎える厳冬期の辛さは想像を絶するもので、この地に鍬を入れた最初の移民の心情を察すれば、団地妻の欲情なるエロ本をレジに待つおねーちゃんの下に持って行く事くらい朝飯前だろう、俺はノーサンキューだけどね。 若松峠3へ進む 若松峠1へ戻る |