教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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静狩峠(25)

★★★★

静狩峠(しずかりとうげ)の取扱説明書

その昔、猿留山道及び雷電山道と並び蝦夷地三大難所に数えられた礼文華山道。その行程は長万部から豊浦にかけての気が遠くなる程の長大山道で、一般には筆頭格と目される礼文華峠のみが取り沙汰されるが、礼文華山道とは大小連なる複数の峠の総称であり、その全体像を掴むには個々の峠を丁寧に精査するしかない。それぞれが距離も高低差も難易度も異なる多様性に富む峠越えの中で、僕が本気で死を意識し一枚の写真も収められなかった峠がある。それが静狩峠だ。読んで字の如しサイレントハンターはトラップに嵌まり衰弱する僕を静かに見守っていた。夕刻迫る発狂寸前の渦中でふと我に返った僕は、間髪入れずに敵前逃亡を図る。あれから十余年が経ち機は熟した。あの日あの時あの瞬間の忌まわしい借りを返すと同時に、返す刀で礼文華山道の全貌を白日の下に晒す。

 

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◆普通車の擦れ違いがギリギリのインチキ二車線の巨大R

“汽車でも道路でもメインコースになった”あの日から50年超が経過した今、かつての在来国道はすっかり鄙びた漁村の生活道路に成り果て、ちょっとでも管理を怠ればたちまち雑草の餌食になりそうな危うい状況下にある。事実人里離れた峠区の大方は開削以前の状態に還って久しい。

辛うじて今日現在も線形そのものは認められるものの、四輪の通行を許さぬ以上現況を上回る良化への期待など望むべくもない。一部に災害復旧と称し改修の形跡が認められるが、それはまだ大露頭へのダンプの往来が頻繁に行われていた時分の話で、恒常的な行き来が途絶えた路を手当てする余裕はない。

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◆浜通りとぶつかり海岸伝いを西進する旧国道37号線

果たして静狩峠はこのまま風化に任せ没して行く運命にあるのだろうか?と考えた時、更なる廃道化は不可避であると言わざるを得ない。人口減少や財政に苦しむ町の懐事情や山道の現況を踏まえれば、そう結論付けざるを得ない。但しそれは平時という条件が付く場合に限る。

先の東日本大震災では少なからず北海道東海岸も津波の影響を受けたが、巨大津波が余波ではなくダイレクトに直撃した場合、即ち有事の際はその限りではないという事だ。町は高台への移転を有力な選択肢として視野に入れるだろう。その際取り沙汰されるのがかつての鉱山都市である。

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◆行き止まりの浜通りと峠道の交点では浜通りが優先

戦前まで静狩は漁師町と鉱山町の二派に分かれ、町民の多くが山の中腹に居を構えていた。その数実に千戸に上る。戦時中のMAX人口からすれば激減した今日の住民を引き受けるだけの十分な受け皿はある。あの大露頭の巨大空間は年配層にとって思い出深い懐かしい場所でもある。

高台へと移転した町へ通じる道はかつての国道であり、旧国道の復元と称し未舗装のまま整備すれば、観光資源の一つとなるのは間違いない。礼文華峠が観光地の先駆的モデルとして成立している以上、その延長線上に位置する静狩峠が認知されないはずがない。

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◆思いの外空き地が目立つ静狩駅前へと通じる一等地

旧道ファンはもとより林道趣味人や峠愛好家が自然と行き来するであろうし、鉱山マニアや廃村・廃屋系も訪れるのは必至だ。また長期自転車旅行や徒歩移動組等の鈍足旅行者の逃げ道としても機能するし、イザベラ道を新設すれば一定数のハイカーも見込めるだろう。

ミスター礼文華山道曰く礼文華峠の旧国道に付かず離れずで交錯するイザベラ道は、復元に寄与する団体がゼロベースで新設した路で、本来のコースは全く別の場所を辿っているという。その場所はいまだ特定出来ておらず、廃止後100年以上が経過している徒歩道サイズの人畜道の発見は容易でない。

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◆開拓使命で明治4年に目賀田が提出した北海道歴検図

但し遅かれ早かれ誰かがイザベラ道の経路を確定するのは必至だ。何故なら陸地測量部が残した車道開削以前の点線道により大凡のルートが特定出来る事、またバードが遺した記録に道中の詳細な記述が成されている点が後押しする。加え江戸期の峠道を記した絵図の存在が残っている点が大きい。

幕使目賀田が残した延叙歴検真図、そこにははっきりくっきりと描かれている。連文峠の文字と共に峠道の一部に架けられた木造橋の姿が。連文峠とは勿論礼文華峠の事を指す。目賀田が北海道を踏破した時期は安政3〜5年で、松浦武四郎の探検時期に重なる。

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◆昭和臭がプンプン漂う木造駅舎の静狩駅

絵図そものは明治4年の清書であるが、その元となった原本は安政年間現在の様子を描いており、既にその頃から峠道には木造橋が架かっていた、それも一箇所に止まらないという事実がある。また絵図の山道が明治27年の新道切替まで現役で供用されたという現実がある。

通行時期は異なれど目賀田も武四郎もバードも皆のらりくらりと山岳エリアを伝う狭隘路を行き来したのだ。一見すると絵図のルートと陸地測量部の直登道が重なるようには見えない。しかし人が映る程の細かい描写の絵図と、縮尺の異なる広域図を単純比較するのはナンセンスだ。

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◆鉱山時代の名残が残る広々とした静狩駅の構内

ざっくりと大局的に眺めればほぼほぼ直線ルートであるが、細かく精査すれば乗馬スタイルで往来可のきめ細かな紆余曲折ルートとなっている。即ち江戸期の鳥瞰図と陸地測量部の地形図は同一路線と思って間違いない。

鳥瞰図・地図・日記とジャンルは異なるが、維新前後の礼文華山道に関する複数の資料が現存する。礼文華車道の完全解明が目前に迫った今、イザベラ道と称される江戸道の完全解明は最早時間と勇気とヤル気の問題である。

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