教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

トップ>廃道>北海道>静狩峠

静狩峠(22)

★★★★

静狩峠(しずかりとうげ)の取扱説明書

その昔、猿留山道及び雷電山道と並び蝦夷地三大難所に数えられた礼文華山道。その行程は長万部から豊浦にかけての気が遠くなる程の長大山道で、一般には筆頭格と目される礼文華峠のみが取り沙汰されるが、礼文華山道とは大小連なる複数の峠の総称であり、その全体像を掴むには個々の峠を丁寧に精査するしかない。それぞれが距離も高低差も難易度も異なる多様性に富む峠越えの中で、僕が本気で死を意識し一枚の写真も収められなかった峠がある。それが静狩峠だ。読んで字の如しサイレントハンターはトラップに嵌まり衰弱する僕を静かに見守っていた。夕刻迫る発狂寸前の渦中でふと我に返った僕は、間髪入れずに敵前逃亡を図る。あれから十余年が経ち機は熟した。あの日あの時あの瞬間の忌まわしい借りを返すと同時に、返す刀で礼文華山道の全貌を白日の下に晒す。

 

DSC06303.jpg

◆下り坂の先に開放感溢れる分岐点を捉える

今では見る影もない荒れ放題のラフロードの秘奥に、かつては集落が存在し、未舗装の山道を片道何時間もかけて学校に通う子供達の姿があった。というエピソードもそれはそれでセンセーショナルではあるが、静狩金山のケースはそのレベルを遥かに超越している。

鴻之舞の時もそうだが、数千人規模の人間が特定の場所で共同生活している様は、市町村或いはひとつの都市が存在したと言っても過言ではない。事実日本を代表する巨大鉱山は昼夜を問わない二交代制で、操業時は沈まぬ太陽があるとまで言われるほど周囲の山々を煌々と照らしていた。

DSC06306.jpg

◆支線林道と分岐する曲率半径30mのヘアピンカーブ

近隣の集落から不夜城と称される眠らない街が、人の気配が皆無の樹海の真只中に存在したギャップに驚きを隠せない。そこに何等かの痕跡が認められればまだ想像も出来よう。しかし財閥が大金を投じて拵えた巨大精錬所の痕跡は、沿道の隅々を見渡しても影も形もない。

本当にそのような実態があったのだろうかと疑いたくもなる。だがその存在は意外な所からも裏付けられるのである。明治36年に先行開業していた長万部駅から延伸する形で二つの駅が同時に産声をあげる。平成18年まで存在した旭浜駅と静狩駅で、共に大正12年の暮れに開業している。

DSC06308.jpg

◆分岐点の先に待つ転回場を兼ねた贅沢な広場

二駅は共に将来的に室蘭へと繋がる海線の一端を担うも、大正後期の時点では暫定開通の為ほとんど利用価値が無かった。何故なら長輪線の全通は元号が変わる昭和3年まで待たねばならないからだ。即ち静狩駅は一時期終着駅であったのだ。

静狩駅=終着駅(T12〜S3)

それは実質5年弱の短い期間ではあるけれど、静狩駅の折り返し即ちピストン輸送が成されていたという現実がある。延伸開業自体は珍しい話ではない。全通まで先送りせず完成した区間から順次運用を開始するのは当然の計らいであろう。

DSC06312.jpg

◆材木の切り出し及び搬出が行われている現役路線

但しどげな駅でも暫定開業出来るかと言えばそうではない。現状を見る限り豊浦或いは伊達紋別まで一挙に開業しないと運用ロスが生じる。廃業した旭浜駅は勿論、一日の平均乗降客数が3人という現在の静狩駅からしても、定期列車を走らせる意味はなく、運用ロスは免れない。

だがあの当時は鄙びた漁村に必要にして十分な乗客が見込まれた。東洋屈指の大金山という人口吸引装置が働いていたのだ。当然の如し長万部からの早期延伸開業が望まれ、長輪線の全線開通を待たずして静狩駅は大正12年12月10日に一般供用を開始する。

DSC06310.jpg

◆軽快なフラットダートのトラバース区間がしばらく続く

それまでは鉱物を長万部まで馬車で運搬していたが、大正末期の静狩駅開業を機にその必要も無くなった。当時鉄道の建設は国策であり急務であった訳だが、また同時に金の産出も国策であった。従って静狩駅の早期開業は、我が国の国益に適う極めて妥当な措置であったのは確かだ。

恐らくというかほぼ間違いなく静狩駅は金山に従事する者達の為に開設が急がれた。まだ1日の処理能力は数十トンで、従業員数も100名前後の発展途上ではあったが、後年二千名に及ぶ都市が出現する事実を踏まえれば、静狩駅早期開業がもたらした意義は計り知れない。

DSC06318.jpg

◆簡易ゲートで阻止される静狩峠西側の新旧道交点

静狩駅が開業した大正12年の暮れに、静狩金山は川崎造船所に買収されている。その額は90万円で、6年前に鴻之舞が住友に同額の90万円で買収された事を思えば、川崎造船所の期待値が窺い知れよう。大手が静狩に東洋屈指の金鉱脈を見出した証左だ。

その夢の跡は現国道に繋がる変則十字路の単管バリケードの奥で息を潜めている。実際には高さ100m超の垂直壁にみる大露頭しか痕跡は認められない。しかしもう一つ我々は重要な痕跡を認知している。それは他でもない鉱物を運搬し、数多の従業員が行き来した未舗装の砂利道だ。

DSC06317.jpg

◆新旧道交点より先の路は市道静狩中央線を名乗る

その存在なくして静狩金山は語れない。大露頭に通じる山道を単なるアクセス路と思うなかれ。それは蝦夷三大難所と恐れられた難所を克服した馬車道にして、晩年は国道37号線を名乗った道内屈指の主要幹線道路でもあるのだ。

現在は静狩中央線を名乗る立派な舗装路として機能するが、未舗装区間の災害復旧箇所に杭打たれた標柱には町道静狩金山線と銘打たれ、現代に生きる我々にここ静狩に大金山アリと訴えかけている。

静狩峠23へ進む

静狩峠21へ戻る

トップ>静狩峠に関するエピソードやご意見ご感想などありましたら一言どうぞ>元号一覧