教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

トップ>廃道>北海道>静狩峠

静狩峠(20)

★★★★

静狩峠(しずかりとうげ)の取扱説明書

その昔、猿留山道及び雷電山道と並び蝦夷地三大難所に数えられた礼文華山道。その行程は長万部から豊浦にかけての気が遠くなる程の長大山道で、一般には筆頭格と目される礼文華峠のみが取り沙汰されるが、礼文華山道とは大小連なる複数の峠の総称であり、その全体像を掴むには個々の峠を丁寧に精査するしかない。それぞれが距離も高低差も難易度も異なる多様性に富む峠越えの中で、僕が本気で死を意識し一枚の写真も収められなかった峠がある。それが静狩峠だ。読んで字の如しサイレントハンターはトラップに嵌まり衰弱する僕を静かに見守っていた。夕刻迫る発狂寸前の渦中でふと我に返った僕は、間髪入れずに敵前逃亡を図る。あれから十余年が経ち機は熟した。あの日あの時あの瞬間の忌まわしい借りを返すと同時に、返す刀で礼文華山道の全貌を白日の下に晒す。

 

DSC06268.jpg

◆180度ターンで反転する静狩峠西側の大曲

二千名が苦楽を共にする鉱山町

今日現在の閑散とした静狩駅前の状況からは想像し難いが、海と山とが前後に迫る猫の額程の僅かな陸地に、かつて2千人が暮らす真っ当な町が存在したという。当然それに見合うだけの規模の施設も実在した。

例えば病院・小学校・映画館・公衆浴場などの大規模収容施設である。倶知安経由の山線と室蘭経由の海線が交わる長万部は、鉄道の発展に起因するところが大きいと勝手に思っていたが、実はそれだけに因るものではなかった。

DSC06272.jpg

◆藪下に隠れる大きな膨らみはかつての車両交換所

近い将来北海道新幹線の停車駅となる長万部町の発展は、交通の要衝即ちターミナルのみならず静狩金山の貢献によるところが大きいと町も認めている。

当時、夜汽車に乗ってトンネルの闇を抜けると、急に静狩金山の夜景が広がった。それを川端康成の「雪国」の有名な書き出しのような情緒をもって述べることはできないが、突然目の前にひらける街は一瞬、夜の都会の現出を思わせるものがあった

闇夜に浮かぶ不夜城

DSC06273.jpg

◆やや不鮮明ながらも路面にダブルトラックを捉える

もしも川端康成が室蘭方面から汽車に乗って西進した場合、国境の長いトンネルを抜けると黄金の国ジパングであった(国内移動の矛盾を内包)、或いは国境の長いトンネルを抜けると空前絶後のぉジパングであった(“金”の字すら見当たりませんが)、或いは国境の長いトンネルを抜けると何とかファーストのラストサムライであった。(←博士っ、最早原形を留めておりません?)

(構わん!続けろ)国境の長いトンネルを抜けるとすぐ美味しいすごく美味しいであった。三つの振興局が犇めき合うこの界隈では、今も国境という概念が根付いている。従って海岸線を穿つ長大トンネルは「雪国」に重なるものがある。

DSC06276.jpg

◆旧道の開けた場所から現国道の大曲を望む

今日現在夜汽車がトンネルを抜け出たところで大した街明りは見付からないし、国道を滑り降りてきたところで目立った建物は見当たらない。ただ一昔前は確実に存在した、不夜城と呼ばれる巨大な精錬所の明りが。鄙びた漁村に都市が存在する事を強烈に主張していたのだ。

それは誰の目にも明らかな確かなものとしてそこに在り続けた。静狩金山の操業は古く山道開削以前の明治23年に遡る。その頃金鉱石を発見したものの資金難から本格的な掘削には至らず、悪戯に月日だけが流れて行く。操業は大正6年で以後鉱山は順次拡大を続ける事になる。

DSC06274.jpg

◆眼下に静かな内浦湾と静狩の小規模集落を捉える

大正11年現在の処理能力は10t/日で従業員数は僅か35名に過ぎなかったが、昭和2年には50t/日の処理能力を有し、従業員も200余名を数えるまでになる。まだこの時点ではどこにでもある一介の鉱山に過ぎないが、財閥住友の出資により生産量は飛躍的に伸びる。

昭和9年には1日の処理能力が350トンに及ぶ全泥湿式青化精錬所が竣工し、翌年には従業員が500名を超え、地元紙も金湧く静狩と称するまでになった。こうなると倍々ゲームで昭和13年には1日の1000トンの処理が可能な精錬所が稼働し、従業員も大台の四桁に達した。

DSC06275.jpg

◆元国内最高クラスの金山街とは思えない過疎地の全景

昭和14年の静狩小学校のクラスは21も有り、クラスに一人はいるマドンナが同時に21人も存在するという羨ましい限りの環境下で、下心満載もっこりもこみちの子供達はすくすくと育っていった。それだけいる人口の満足度を満たす為の娯楽施設等も全国のトップクラスを誇ったという。

時は丁度我が国が満州事変に端を発する泥沼に嵌まって行く時期で、一般市民の生活が統制の名の下に脅かされる初期段階にあった。そのような渦中で静狩は倍々ゲームの大躍進を遂げる訳だが、それには財閥の豊富な資金力のみならず金に重きを置く国策という後押しがあった。

DSC06278.jpg

◆海と山に挟まれ細く長く延びる静狩の狭小平野

ゴールドの価値は今も昔も変わらない。一国の貨幣価値が怪しくなった際に代替として取引に利用されると共に、最も輝きを放つ物質の象徴としてその価値は未来永劫揺るがない。戦前の我が国も当然の事ながら金の産出に重きを置いた。

それが何をトチ狂ったか昭和18年に突如金産出の中止命令が下る。ミッドウェイでの壊滅的な大敗北を扮した事により、国策の転換が迫られたのだ。有事の際の実用鉱物である銅や鉄の産出に傾倒せざるを得なくなったのである。

静狩峠21へ進む

静狩峠19へ戻る

トップ>静狩峠に関するエピソードやご意見ご感想などありましたら一言どうぞ>元号一覧