教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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礼文華峠(22)

★★★★

礼文華峠(れぶんげとうげ)の取扱説明書

猿留山道及び雷電山道と並び蝦夷地三大難所に数えられる礼文華山道。長万部から豊浦にかけて大小連なる複数の峠の総称で、それぞれが距離も高低差も難易度も異なる多様性に富む峠越えの中で、筆頭格にして総大将と目されるのが礼文華峠である。かつては死を意識するほどの恐ろしく逝かれた山道であったが、歴史道として再認識されて以降整備が著しく、今では尤も探訪し易い楽勝コースと化している。それが良いのか悪いのかは人それぞれであるが、存在自体がほぼ否定されたに等しい完全廃道時代から、有志による刈り払いが実施された浅藪時代を経て、ハイキングコース化した現在に至るまで武四郎宜しく向こう三度に亘り路の変遷を垣間見た僕なりの視点で、この峠の酸いも甘いも語り尽くす。

 

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◆頭上を遮る物が一切ない頂上一歩手前の開放的な空間

長輪線の全通に沸く地元民の熱狂たるや半端無い。悲願という言葉はまさにこの時の為にある言葉で、沿線はどこもかしこもお祭り騒ぎで人々は狂喜乱舞した。そりゃそうだ、馬車しか通さぬ狭隘山道の苦行から解放されたのだから。それで踊り狂わない方がどうかしている。

何せ昭和3年を境に移動手段に天と地ほどの劇的な差が生じており、長万部と豊浦の間に立ちはだかる幾つもの障害を越える必要がないばかりか、安全且つ快適に加えスピーディーに移動出来るとあらば、悶え死にしても不思議でない驚愕の出来事と言っても過言ではない。

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◆大型車同士の交換が可能な余白たっぷりの頂上

昭和黎明期と言えば、まだ人々が自身の足で峠を越えるのも苦にしないのは勿論、スタコラサッサと江戸時代宛らにトレイルランするのが日常の一コマで、森蘭航路とは無縁の礼文や大岸の住民は、長らく長大山道の踏破が必然であった。航路から外れた漁村の悲しい性である。

札幌本道なるスーパー馬車道の開設から遅延する事20余年、ようやく礼文・大岸の両地区を通過する馬車道が新設された。しかし蓋を開けてみれば礼文華新道はマカダム舗装ではなく、一雨降れば泥んこ必至のガタボロダートで、札幌本道の出来には遠く及ばぬ御粗末な悪路であった。

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◆頂上右手に佇む直立不動の何とも不自然な枯れ木

もしも明治27年竣工の礼文華新道が札幌本道と同等、或いはそれ以上の完成度を誇っていたならば、森蘭航路は瞬く間に経営難に陥り存続の危機に晒されていたであろう。しかし実際にそうはならなかった。何故なら礼文華新道が明治初期の道路規格を下回る平易なスペックの悪路であったからだ。

例えば長万部と室蘭を結ぶ山道が隧道を駆使して障害をパスする上に、道路規格が札幌本道に準ずるマカダム舗装で、全線を通じて馬車の相互通行を許すスーパー馬車道であったならば、函館と札幌をダイレクトに結ぶ乗合馬車が疾走し、乗換が面倒な船舶は敬遠されていたかも知れない。

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◆近寄ると足掛棒を備える木製の電柱と気付く

馬車・自動車を問わず直行便が歓迎されるのは、瀬棚線開通前夜の乗合馬車VS乗合自動車の鍔迫り合いに見た通りである。直行便は間違いなく歓迎される。しかし森蘭航路は依然としてドル箱路線で在り続けた。何故か?それは礼文華山道で乗合馬車営業をするには極めて厳しい環境にあったからだ。

第一義的な理由として沿線に住む人口の少なさが挙げられる。室蘭と札幌を結ぶ馬車便は無条件に成立する。道中にはそこそこの人口を抱える集落があるからだ。しかも起終点は道庁及び重要港湾ときている。しかし長万部と豊浦の間には鄙びた漁村しかない。それも僅かな数だ。

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◆峠にぶつかるブル道はイザベラ道である可能性大

函館と室蘭は重要港湾同士を繫ぐ有力路線だが、そこには森蘭航路という強力なライバルが既に存在する。しかも航路は最短最速で結んでいる為、長万部経由で無駄に遠回りした挙句にガタボロダートでは全くお話にならない。しかも沿道は無人エリアもしくは過疎地域ときている。

昭和16年夏の敗戦の如し、戦わずして既に負けている。乗合馬車営業をするのは自由だが、資産家の趣味でもない限り赤字垂れ流しの不採算営業がいつまでも続けられるものではない。爪痕を残す意気込みでのチャレンジは大いに歓迎するが、それらしき人物は見当たらない。

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◆峠より下りに転じると緩やかな勾配で広場に出る

明治36年に函館本線の長万部駅が開業した際に、同駅を起終点とする乗合馬車が出現しても不思議でないが、それらしき史料は今の所見当たらない。国縫駅の開業から程無くして瀬棚方面への馬車が営業を開始した様に、一旗揚げる者がいても何等おかしくはない。

しかし実際に営業をする者はいなかった。馬車道がすっかり板に付いているにも拘らずだ。やはり既定路線と化していた森蘭航路がネックとなり、挑戦者の参入意欲を著しく削いだと言わざるを得ない。先駆者の存在が無ければチャレンジャーがいたかと思うと悔やまれてならない。

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◆峠直下の支線林道との交点が事実上の山道の終点

考えてもみて欲しい、北海道新幹線の経路を巡り熾烈な争奪戦を繰り広げた有力路線にして、主要国道のポストに就いて久しい道内随一のビジネス路線である。そこに風穴を開けんとする挑戦者がいない訳がない。

恐らく計画を立案した者はいた。しかしシミュレーションによって悉く打破されたのだ。天皇の巡幸ルートにもなった森蘭航路という壁は余りにも高く、そして想像以上に分厚かったのだと完膚無きまでに思い知らされたに違いない。

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