教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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礼文華峠(21)

★★★★

礼文華峠(れぶんげとうげ)の取扱説明書

猿留山道及び雷電山道と並び蝦夷地三大難所に数えられる礼文華山道。長万部から豊浦にかけて大小連なる複数の峠の総称で、それぞれが距離も高低差も難易度も異なる多様性に富む峠越えの中で、筆頭格にして総大将と目されるのが礼文華峠である。かつては死を意識するほどの恐ろしく逝かれた山道であったが、歴史道として再認識されて以降整備が著しく、今では尤も探訪し易い楽勝コースと化している。それが良いのか悪いのかは人それぞれであるが、存在自体がほぼ否定されたに等しい完全廃道時代から、有志による刈り払いが実施された浅藪時代を経て、ハイキングコース化した現在に至るまで武四郎宜しく向こう三度に亘り路の変遷を垣間見た僕なりの視点で、この峠の酸いも甘いも語り尽くす。

 

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◆第13ヘアピンの余白は大型車が複数台駐車可能

イザベラバードは生きていた!

そんな歴史的発見は未来永劫あるはずはないのだが、バード女史が踏破した山道はそう遠くない将来我々の目の前に忽然と現れる可能性は極めて高い。その根拠として無名の挑戦者が人知れず踏破に成功している実績を挙げねばなるまい。

大岸市街地での聞き取りで僕は地元生え抜きの初老から、江戸時代から使われていると伝えられる最古の路を探し求めているという高校教諭の話を聞いた。初老を筆頭に地元の猟師等で即席のチームを組み、彼等は大岸峠に挑んだそうな。

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◆第13ヘアピンに設置された相撲取り場の案内板

その際同行した高校教諭が発したという一言に僕は釘付けになった。彼は語る、これで礼文華山道の全容が分かりましたと。一般的に礼文華山道とは礼文華峠を指すと思いがちだが、西は静狩峠に始まり礼文華峠を越えてチャシを経て大岸峠を越える一連の長大山道を指す。

江戸時代から供用される最古の路を追求する者が、その事実を把握していない方がおかしい。しかも見落とされがちな大岸峠に狙いを定め、その初代の路の踏破を以て全容を把握したとあらば、静狩・礼文華・チャシの各山道も既に掌握していると考えるのが自然だ。

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◆相撲取り場から眼下に現道の礼文トンネルを捉える

礼文華峠の道中には相撲取り場という絶好の休憩ポイントがある。何でも道路工事従事者が休憩中に相撲をとったり賭博をした場所らしく、大所帯が一服可能な広大な広場となっている。場所は第13ヘアピンに重なり、かなり高度を稼いだ高台からは礼文隧道の坑口が拝めるビューポイントだ。

現行のトンネルが拝めるという事は、山道自体がかなり内陸に入り込んでいる証拠で、明治の半ばまで供用された内浦湾が見え隠れする直線に等しい古道とは明らかに一線を画す。もうこの時点でなんちゃってイザベラ道である違和感に気付きそうなものだが、地図の照合をしない限りは意識しない。

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◆尾根伝いに出ると頭上を遮る物はほとんど無い

事実僕も車道と付かず離れずで寄り添う人道が、つい最近まで最古の路であると思い込んでいた。地元有志が設置した案内板が信憑性を高め、普通はそれらを鵜呑みにするであろうから、ツアー参加者のほぼ全てが何の疑いもなくイザベラ道をなぞったと思い込んでいるはず。

しかし相撲取り場は昭和の失業者救済工事の際のエピソードで、江戸時代より言い伝えられる余興の一環ではない。曲りなりにも津軽藩が暫定開通に漕ぎ付けた際は、休憩中に遊戯を嗜む余裕などなかったと思われ、死亡遊戯宛らの試練の連続で常に死亡フラグが立っている状態であったのは想像に難くない。

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◆日中のほとんどが日陰なのが足元が湿っている

明治20年代には車道として成立していた馬車道を、昭和になって自動車が行き来出来る様に改める工事であったからこその成せる業で、レールを敷くのと軌道を修正するのとでは労働環境に雲泥の差がある。やはり後者の方が圧倒的に楽であるのは言うまでもない。

それでも相撲取り場=飯炊場でもあり、今のように易々と登って来られる訳ではない事を思えば、労働環境はそれなりの過酷さがあったのは確かだ。時局匡救事業は昭和7〜9年の三カ年に限定される国の大規模な土木事業で、昭和恐慌によって顕在化した大量の失業者を救済する目的の時限事業である。

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◆有志の手によって刈り払われた雑草が道端に横たわる

表向きは一般に供する公共のインフラ整備となっているが、時勢的に軍事利用に適う土木事業という意味合いが濃く、戦車やトラック等の大型軍用車両が往来出来るように道幅を拡げるのは理に適っている。この時を以て今日我々が拝む自動車道へと昇華したのであろう。

裏を返せば昭和一桁まで当山道は旧態依然とした馬車道であった可能性が大だ。その理由のひとつとして挙げられるのが長輪線の開通である。時は昭和3年9月10日、待望の静狩⇔伊達紋別間が開業し、長輪西線と東線が一本のレールで結ばれる。これにより室蘭経由で函館と稚内の直通運転が可能となった。

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◆視界前方が大きく開け頂上がもう手の届く位置に迫る

仮にニセコルートが爆破され不通になったとしても、室蘭経由が代替ルートとなり生命線は保たれる。軍民官問わず代替線の確保は喫緊の課題であったから、長輪線の全通に懸ける意気込みは生半可なものではなかった。

大正年間には長輪東西線が部分開業に漕ぎ付けていたから、大正末期から昭和初期にかけて御当地は鉄道一色に染まっていたのは間違いない。もうそうなると馬車しか通さぬ山道など無用の長物で、人々の脳裏から忘れ去られる憂き目に遭う。

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