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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>北海道>礼文華峠 |
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礼文華峠(17) ★★★★ |
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礼文華峠(れぶんげとうげ)の取扱説明書 猿留山道及び雷電山道と並び蝦夷地三大難所に数えられる礼文華山道。長万部から豊浦にかけて大小連なる複数の峠の総称で、それぞれが距離も高低差も難易度も異なる多様性に富む峠越えの中で、筆頭格にして総大将と目されるのが礼文華峠である。かつては死を意識するほどの恐ろしく逝かれた山道であったが、歴史道として再認識されて以降整備が著しく、今では尤も探訪し易い楽勝コースと化している。それが良いのか悪いのかは人それぞれであるが、存在自体がほぼ否定されたに等しい完全廃道時代から、有志による刈り払いが実施された浅藪時代を経て、ハイキングコース化した現在に至るまで武四郎宜しく向こう三度に亘り路の変遷を垣間見た僕なりの視点で、この峠の酸いも甘いも語り尽くす。 |
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◆眼下にも頭上にも本線を捉える九十九折の真只中 となると1日の通行者が限りなくゼロに近かったとしても何等不思議でない。事実バード女史は自著の中で一人の通行者とも擦れ違ってはいないし、地元民の証言としてシーズン中に僅か四人の往来しか認められないとの情報を得ている。高が四人、されど四人である。 明治11年現在の礼文華山道が人を寄せ付けない全くの廃道という訳ではなかった。現に通訳の伊藤を筆頭に道案内役のアイヌ等と共にバード女史は礼文華山道の縦走を果たしている。無謀とも思える彼女の身体を張ったチャレンジは、混沌とする時代の貴重なデータを我々に提供してくれる。 |
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◆離合箇所を兼ねた曲率半径10mの第7ヘアピンカーブ 明治11年現在の通行者のほぼ全てが海上輸送に依存し、自身の足で行き来する者は皆無に等しい状況にあった。だからといって山道は消滅している訳ではなく、少なからず山道を縦走する者達がいた。通行者が皆無でなかったからこそ道が消え失せなかったとも言える。 今は高規格の国道に高速道路まで通じている。ほぼ100%の車両がそのどちらかを選択し、長万部と豊浦の間を俊足で駆け抜ける。その状況はかつて本線扱いとなっていた室蘭⇔森間の航路に重なる。一時代前は移動者のほぼ全てが無条件に航路を選択する時代があった。 |
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◆短いピッチで反転する元国道とは思えない厳しい線形 開拓使のお抱え外国人ケプロン指導の下、札幌から千歳・苫小牧・室蘭に至るマカダム舗装のスーパー馬車道が明治6年に完成する。それ単体では単なる地域高規格道路に過ぎないが、内浦湾を横断する航路と一体化し函館へ接続する事で、道の屋台骨となる一大動脈が成立する。 函館から札幌に至る総延長180kmの大路を札幌本道と呼ぶ。その路の大前提として組み込まれるのが幻の航路と称される室蘭⇔森間の森蘭航路である。 森蘭航路 |
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◆離合箇所を兼ねた曲率半径10mの第8ヘアピンカーブ 改修難易度の高い礼文華山道を避けて船でショートカットするという手法は、いかにも合理的な欧米人が考えそうな手段だ。確かに峻嶮な山道の開削は失敗に次ぐ失敗の連続で、江戸年間の開発では致命的な敗北を扮している。寛政11年、幕府は松前藩に礼文華山道の開削を命じる。 これが記録に残る最初の本格的な山道開削となる。この工事は御約束通り順調に難航し、最初の開削は失敗に終わる。翌年幕府は自ら開削に乗り出すべく小林卯十郎を派遣し、現場で指揮を執らせるもこれまた失敗に終わる。ほれみた事かと松前藩主も失笑したに違いない。 |
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◆第8ヘアピンを経てようやく斜面の最上階に達する そりゃイライラした将軍家斉様もビジネスホテルの一室に戻り歯ブラシ持って来い!とフロントを呼び出しまさぁねぇ。享和3年に津軽藩が修築を申し出て開削に着手し、ようやく踏分道程度の御粗末な道程が日の目を見る。この時点ではまだ完成とは言い難いが、これを以て暫定開通と見做す事は出来る。 獣道程度ながらも全通を果たした津軽藩は一時撤退したが、文化元年より整備を推進し同3年に山道を完成させている。笹の根を掘り起こし、巨石を動かし、川に板橋を掛ける本格的な整備で、お上の求める幅九尺に対し幅三尺標準での竣工となったが、これを以て長大山道の完工とみてよかろう。 |
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◆伐採されて間もない大解放区から鬱蒼とした森に移行 礼文華山道の開削は幕府の命を受けた遠山金四郎景普の報告書に端を発する。氏は礼文華山道を「源延尉の鵯越えも斯やあらん」と評し、途轍もない急峻な地形に驚嘆している。源平合戦のひとつである神戸は須磨の一ノ谷の戦いの舞台を例に挙げ、幕府に山道開削の必要性を説いた。 遠山の金さんの探検から大凡半世紀を経た弘化年間に、再び幕府の命を受けた探検隊が礼文華山道に挑む。他でもない松浦武四郎その人である。氏は東蝦夷日誌に「此山には往古より土人の道形少有しを、文化度、当所詰合の者切開、今は馬足も立様に成たり」と書き記している。 |
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◆第6〜8のヘアピンカーブが手に取るように分かる 道無き道を掻き分けて進んだであろう遠山の金さんに対し、約半世紀を経た頃には馬での通り抜けも容易であった様子が窺える。津軽藩の本格的な開発を機に人々の往来及び都度の修繕並びに地道な改良が行われた結果だ。 しかしながら武四郎の最終踏破から20年後に山道を通り抜けたバード女史の報告では、江戸年間とほとんど変わらぬ厳しい山道の容姿が読み取れる。森蘭航路を含む札幌本道に覇権が奪われ、通行人が激減した結果の由々しき事態である。 礼文華峠18へ進む 礼文華峠16へ戻る |