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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>北海道>礼文華峠 |
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礼文華峠(16) ★★★★ |
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礼文華峠(れぶんげとうげ)の取扱説明書 猿留山道及び雷電山道と並び蝦夷地三大難所に数えられる礼文華山道。長万部から豊浦にかけて大小連なる複数の峠の総称で、それぞれが距離も高低差も難易度も異なる多様性に富む峠越えの中で、筆頭格にして総大将と目されるのが礼文華峠である。かつては死を意識するほどの恐ろしく逝かれた山道であったが、歴史道として再認識されて以降整備が著しく、今では尤も探訪し易い楽勝コースと化している。それが良いのか悪いのかは人それぞれであるが、存在自体がほぼ否定されたに等しい完全廃道時代から、有志による刈り払いが実施された浅藪時代を経て、ハイキングコース化した現在に至るまで武四郎宜しく向こう三度に亘り路の変遷を垣間見た僕なりの視点で、この峠の酸いも甘いも語り尽くす。 |
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◆膨らみにも砂利が撒かれている現役の待避所 A地点とB地点を結ぶ際に幾つかのルートを立案し、それらを難易度や費用等から比較検討するのが通例だ。始めからこのルートありきで選択の余地がない事例もあるにはあるが、通常は複数の経路から最適解を見出す事になる。例えそれが後年否定される愚策であってもだ。 最適解はその当時の国際情勢や国策等の時代背景に左右され、必ずしも未来永劫有効という訳ではない。イザベラバードは自著日本奥地紀行の中で礼文華山道を越えた人数を四人と記している。また長大山道の道中では彼女は通行人と接触しなかったという現実がある。 |
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◆伐採を免れた薄暗い樹林地帯へと滑り込む山道 今年になって礼文華を通った人は、二人の役人と一人の警官の他にただ一人だけである。この道は人の通らぬ淋しい道で、四日間の旅で一人も人間に会わなかった。 礼文華山道の通行者は四人/年 たったの四人、されど四人である。これを少ないとみるか多いとみるかは解釈の仕方によってまるで異なる。現状で物事を捉えれば途轍もなく異常な数字に思えてくる。しかし時代背景を踏まえればそうでもない事が理解出来る。 |
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◆足元には側溝等の人工物は一切見当たらない 江戸時代の我が国は大凡の人口が3000万人で安定した推移グラフを示す。しかし鎖国が解かれるや否や緩やかな上昇カーブを描き、長らく続く右肩上がりで億単位に達して久しく、今この瞬間も人口は億をキープしている。また北海道の人口も500万を超えて久しい。 だがイザベラバードが通行した時分は本土からの移民が始まって間もなく、倍々ゲームで住民が加速度的に増殖する過渡期にあり、明治11年現在の統計では道全体で191,172人を数えるに止まる。これにアイヌを加えても開拓初期の北海道は20数万人レベルであると推察される。 |
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◆全貌が捉えられない曲率半径20m前後の第六ヘアピン 一つの切り口である人口比からしても単純に1/25であり、そこから人口が集中する札幌・小樽・函館とは比にならない過疎地である点を加味すれば、1/100或いはそれ以下との解釈が成り立つ。例えば平成17年度に於ける礼文華峠の24時間通行量は、上下線合わせて5171台と記録されている。 バイト丸投げの適当な調査であるから多少の割引が必要だが、今日現在礼文華峠は1日5千台超の車両が行き来していると思って間違いない。但し現状の通行量をそっくりそのまま当て嵌める訳にはいかない。何故なら明治11年現在の峠道は夜間通行がほぼ不可能であるからだ。 |
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◆北海道らしいカラマツの森を蛇行する山道 沿道には街路灯が整備され、最悪でも自身のヘッドライトが頼りになる現状とは裏腹に、無灯火登山に等しい当時の峠越えは、例え禁じられていなくとも自ら率先して実行に移す者は皆無に等しい。現場は蝦夷三大難所であるから命を賭して夜間踏破する者などまずいない。 となると比較対象となるのは12時間通行量であり、そうなると3802台と2.5割引になる。3800台の1/25は152台である。道路状況を一切考慮せず現在と当時の人口比で導き出される礼文華峠の通行者数は150人前後と割り出せる。しかし更に外しては通れない実情がある。 |
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◆複数の作業道が入り乱れる非常に解放的な区間 バード女史も指摘しているように当時のメインルートは海上輸送にあった。室蘭と函館を結ぶ定期航路が移動の主流であり、陸路は大時化の際の迂回路程度に過ぎなかった。明治6年に竣工した札幌本道は、室蘭から苫小牧・千歳を経由し札幌に至る本格的な西洋式馬車道で、船舶との連携が前提であった。 従って函館は森の埠頭から八雲方面へ足を踏み入れるのは稀で、ほとんどの渡道者は津軽海峡と内裏湾を船で繋ぐ海上ルートを選択する。明治11年現在の礼文華山道は江戸末期に松浦武四郎が探検した時分と何等変わらず、常人が日常的に行き来出来る状態にない。 |
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◆三連続ヘアピンにて高度50m前後を一気に稼ぐ 従って敢えて礼文華山道を選択するのは、冒険心が勝るとか好奇心が旺盛な者、通過した経験があるなどの健脚な者、或いは船賃をけちる貧乏人等の少数に限られ、あくまでも内浦湾横断ルートが既定路線であった。 8:2の法則を用いれば、通行者152人中120人が船舶を利用する事になる。残りの30人程度が自らの足で長大山道を越える事になるが、狼に羆に盗賊に道中の怪我等のリスクを考慮すれば、実際の挑戦者は更に目減りするだろう。 礼文華峠17へ進む 礼文華峠15へ戻る |