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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>北海道>礼文華峠 |
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礼文華峠(10) ★★★★ |
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礼文華峠(れぶんげとうげ)の取扱説明書 猿留山道及び雷電山道と並び蝦夷地三大難所に数えられる礼文華山道。長万部から豊浦にかけて大小連なる複数の峠の総称で、それぞれが距離も高低差も難易度も異なる多様性に富む峠越えの中で、筆頭格にして総大将と目されるのが礼文華峠である。かつては死を意識するほどの恐ろしく逝かれた山道であったが、歴史道として再認識されて以降整備が著しく、今では尤も探訪し易い楽勝コースと化している。それが良いのか悪いのかは人それぞれであるが、存在自体がほぼ否定されたに等しい完全廃道時代から、有志による刈り払いが実施された浅藪時代を経て、ハイキングコース化した現在に至るまで武四郎宜しく向こう三度に亘り路の変遷を垣間見た僕なりの視点で、この峠の酸いも甘いも語り尽くす。 |
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◆白昼でも閑散とする峠道の起終点となる礼文駅前 礼文華峠への玄関口となる礼文駅前は酷く閑散としている。建築物の多くは刷新され近代化の波が押し寄せているが、その流れに人の動きが伴っていない。もう少し活気に満ちていても良さそうなものだが、駅前には人っ子一人見当たらず白昼だというのに恐ろしいほどの静寂に包まれている。 複数の自販機がいつ来るか知れない客を待ち侘びているが、果たして利益が得られているのか否かは甚だ疑わしい。24時間通電している電気代さえ賄えていないのでは?といらぬ心配をしてしまう。対峙する郵便局も年金を下しにくるジジババが時折訪れるくらいで、唯一の信号機は宝の持ち腐れになっている。 |
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◆歩道付二車線の快走路に改められて久しい駅前通り 近い将来消滅自治体がポツリポツリと現れると予測される中、その端緒となるであろう消滅地区を目の当たりにしているようで、事実駅前から余裕の徒歩圏内にある中学校は閉校して久しく、数少ない学生は二駅先の豊浦中学校への長距離通学を余儀なくされている。 小学校とていつ何時統廃合されるかは分からず、早晩豊浦への更なる遠距離通学を強いられる事になろう。この界隈では逸早く閉校の憂き目に遭った礼文の中学校であるが、かつては小幌集落に暮らす学生の受け皿となっていた歴史があり、まともな運動会が開催出来るほどの生徒数を誇った時代があった。 |
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◆見通しの利く直線で礼文市街地を抜ける旧国道 ここ礼文は炭鉱で栄えた町ではない。古来単なる漁村に過ぎない。それでも単なる鄙びた漁村でない事は、平成17年まで中学校が存在した事実からも頷けよう。学校名には礼文ではなく礼文華が冠され、今では閑散とした漁村がこれより挑む峠と切っても切り離せない関係にある事を示唆する。 礼文駅前には営業を辞めて久しい旅館があり、建物の規模から最盛期は結構な集客力を誇っていたと推察される。隣の小幌駅でも民宿が成立したくらいであるから、然程経営努力をせずともそこそこの集客が見込めたに違いない。大きな転機となったのは昭和40年代初頭の路線切替だ。 |
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◆本線は右斜め45度に舵を切るが旧国道は交点を直進 それまでは好むと好まざるとに関わらず、全ての車両が鞍跨ぎの峠道を目指した。その起終点に位置する駅前旅館は食事処としても機能し、鉄道利用の純粋なビジネス客は当然として、国道を行き来するドライバーの胃袋を満たすドライブイン的な役割も担っていたに違いない。 国道37号線の沿道にも幾つかのドライブインが認められるが、その昔は駅前通りに軒を連ねライバル店と凌ぎを削っていたのではなかろうか。旧国道筋が賑やかなのは駅前の前後に限られ、人家が途切れると広大な牧草地が広がるばかりで、駐車場付きの店舗が構えられる真っ当な更地は見当たらない。 |
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◆振り返ると直進がかつての本線であった事は一目瞭然 二車線の快走路はある地点で右斜め45度に折れ曲がるが、そこで枝分かれする1.5車線路は微動だにせず真直ぐに突き進む。逆から見ると本線はさも直進路にあるように映るが、それは目の錯覚や勘違い等ではなく、全車が迷わず直進していた時代があった。 そう、昭和新道が成立する以前の国道である。かつて礼文市街地を抜け出た車両は迷わずこの三叉路を直進した。今ではほぼ全ての車両が交点を右に舵を切る、というか白線に従って無意識に道道609号線を伝う。しかし一時代前は有無を言わさず直線を行き来したのだ。 |
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◆道道との三叉路を過ぎた直後に架かる礼文華橋 三叉路の直後に架かる橋の銘板には礼文華橋の文字が躍る。割と近代的な橋に付け替えられているが、その交換時期が昭和50年と銘板は訴える。既に40年選手の古豪であるが、旧道と化したのが昭和41年である事を踏まえれば、その後10年程度は旧橋が供用され続けた事になる。 旧道化したとはいえこの先にも人家が点在する生活道路であるから、それなりの耐性並びに耐用年数が求められるはず。それでも10年前後架け替えが行われなかったという事は、先代の礼文華橋がコンクリ橋であった可能性が高い。国道時代の遺構であるから尚更だ。 |
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◆礼文華橋の銘板は昭和50年の架け替えと訴える 戦後しばらくはローカル国道のほとんど全ての橋梁は木橋が占めていたが、昭和30年代に入ると順次永久橋への切替が成される。恐らく礼文華橋も同年代もしくは昭和20年代末には架け替えが実施されたとみていいだろう。 昭和50年まで木橋を騙し騙し供用していた奇跡も無きにしも非ずだが、それであれば交通量が激減した昭和40年代初頭の切替が自然で、そこから10年も使い続けた実績から逆算すると、昭和30年代初頭の架け替えとみるのが妥当だ。 礼文華峠11へ進む 礼文華峠9へ戻る |