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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>北海道>チャシ峠 |
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チャシ峠(13) ★★★★ |
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チャシ峠(ちゃしとうげ)の取扱説明書 猿留山道及び雷電山道と並び蝦夷地三大難所に数えられる礼文華山道。その完全制覇を試みるにあたり外せない区間がある。それがチャシ峠だ。恐らくドライバーの十中八九は現場が峠越えである事実に気付いている。しかしそこに峠名を配した地図は皆無に等しく、その他諸々の書物に於いても完全スルーを決めている為、一般にチャシ峠が公然と語れる事は無い。しかしこの峠抜きに礼文華山道は語れない。道路・鉄道共に難所の痕跡は随所に垣間見られ、長大山道の一角を成す難コースという現実を認めざるを得ない。現場は一時代前の北海道の道路事情を今に伝える格好の舞台で、礼文華峠と大岸峠の中継ぎというよりもチャシ峠そのものが主役級の逸材で、この報告書によって我々はチャシ峠がけして脇役でない事を強く意識するだろう。 |
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◆昭和初期の鉄道開業時の美の岬を捉えた古写真 現在の室蘭本線は礼文浜トンネルで美の岬を完全にパスする為、昭和年間では迫力あるシーンが目前に迫った奇岩奇勝とは無縁となっている。類稀な景色と引き換えに安全を買った結果だ。敷設当時は海岸線すれすれでも問題無しとの結論に至ったのであろうが、蓋を開けてみれば落石の連続であった。 万年落石に脅かされる美の岬では考え得るあらゆる手段が講じられたが、自然の猛威には勝てず結局は景勝ルートを手放す羽目になった。それは国道とて同じで、魔の踏切もそうだが落石によるヒットも脅威であり、特に美の岬を丸腰で通過する道路は常に危険に晒されていた。 |
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◆線路跡をじわじわと呑み込み海岸線へ躍り出る道道 ほとんどの落石は万有引力の法則に則って手前の国道に落ちるのであって、鉄道と国道では打率はまるで異なる。ただホームラン級の巨石となると道路も鉄道もなく、直下にいた者の全てが壊滅的状況は免れない。悪夢の現場からとっくの昔に鉄道は手を引いたが、道路は今日現在も自然と対峙し続けている。 鉄道跡地を上手く利用しながら生活道路を維持せんと道道は孤軍奮闘する。礼文と大岸を繋ぐバイパスがある以上、寸断されて困るのはほんの一握りの者に過ぎない。郵便や新聞配達を筆頭とする地域密着型の戸別配送が若干面倒ではあるが、日常の生活で困る人はほとんどいないだろう。 |
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◆昭和40年頃の美の岬を駆け抜けるSLの勇士 というのも礼文と大岸の間には人家が一軒も見当たらないからだ。礼文⇔大岸間には美の岬・チャス・チャシと三つの難所が連なり、とてもじゃないが人が真っ当に暮らせるような場所ではない。現場は僻地も僻地、陸の孤島と言っても過言でないくらいの辺境の地にある。 事実古来アイヌは磯浜ルートを干潮のみの条件付で利用していたに過ぎず、基本コースは遥か頭上の崖上を伝っており、それも一旦浜に降りてはまた上りを繰り返す難コースで、その道中に居を構えようだなんて誰も思わない。従って礼文と大岸はまともな道路や鉄道が通じるまで近くて遠い存在であった。 |
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◆昭和初期に敷設された鉄道の石垣が今も残る 尤も海上ルートを伝えば行き来は容易で、それも波の穏やかな日に限られるであろうが、一応隣町であるから親交が無い訳ではなく、港街宜しくもっぱら行き来は小舟に拠っていたものと思われる。脚力よりも腕力が物を言う世界で、大腿筋よりも上腕二頭筋が発達していたであろう事は容易に想像が付く。 但しそれは礼文及び大岸在住の者に限られ、その両漁村を通過するのみの長距離移動者は、山越えルートもしくは磯浜砂浜経由での徒歩移動は必至である。かの有名な外国人旅行家のイザベラバードもチャシ峠を越えた一人で、彼女の手記を鵜呑みにすると山側を迂回したものと思われる。 |
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◆旧室蘭本線の奇勝ルートに挑む北海道初の特急列車 イザベラバード&チャシ峠 彼女は明治黎明期の北日本の実態を具に記録した手記が著名であるが、実はその足でまだ北海道と命名されて間もない蝦夷地を訪ね歩いた数少ない外国人で、基本船と馬と徒歩による移動は旅行というより探検や冒険に等しい。 北海道の名付け親である松浦武四郎は述べ三回に亘り礼文華山道を通過しているが、直近の通過は安政5年である。一方イザベラバード女史の通過は明治11年で、両者の間には凡そ20年の隔たりがある。 |
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◆新しい擁壁以外に大きな変化は見られない美の岬区 幕末と明治初期であるから道路のコンディションにもある程度の差が生じているかと思いきや、明治以降の礼文華山道の本格的な改修は同23年以降で、それまでは人馬の通行しか許さぬ登山道に等しい小径であったから、多少の部分改修を考慮しても江戸時代も明治時代も基本的な構造は変わらない。 従って武四郎とバード女史は同じ様な道を辿ったと見て間違いない。蝦夷地に和人が入植する以前からチャシ峠区は山越えルートと浜ルートの二択で、万年通行可なのは山越えルートであるから既定路線は山側迂回となる。余程条件が揃わない限り地元民も浜ルートは勧めなかったに違いない。 |
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◆路線切替直前の美の岬を駆け抜ける特急おおぞら ところが早ければ明治2年、遅くとも同3年にはタッコブと岩見の人道隧道が開通していたはずで、バード女史がこの界隈を通過した同11年頃には洞門もすっかり板に付いていたはず。従って彼女が海岸線の二洞を潜ったとしても何等不思議でない。 しかし彼女の遺した手記にそれらしきシーンは見当たらない。明治11年当時はトンネルの絶対数が少なく記憶に残りそうなものだが、彼女はその事に一切触れていない。この事案を我々はどう解釈すればよいのだろうか? チャシ峠14へ進む チャシ峠12へ戻る |