教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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太櫓越峠(25)

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太櫓越峠(ふとろごしとうげ)の取扱説明書

渡島半島の東側を南北に走る海岸線は、我が国で五番目に重要な路線にして、北海道随一の幹線である事に異論の余地はない。その東海岸線を陽とするならば、瀬棚と江差を結ぶ西海岸線は陰となる。山陽道と山陰道の例を出すまでもなく両者の交通量には決定的な差があり、結果開発は遅々として進んでいない。事実これより挑む山道は昭和の晩年まで直に鞍部を跨いでいたし、鉄道は今も昔も西海岸線を走破した試しがない。結果太櫓越山道が唯一の生命線となる訳だが、山道に注がれた先人の血と汗の結晶は、トンネル開通後も極上の峰越フラットダートなる副産物を齎す。その恩恵に授かったドライバー&ライダーは少なくない。走破済という経験則から今度こそR8での峠越えを立証したい。下町ロケットアウディ計画起死回生編、始まります。

 

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◆無数の落石によって破壊されたガードロープ

昭和7年の晩秋に悲願の渡島半島横断鉄道が全通する。もう移動の際に盗賊や羆の恐怖に脅える事も無ければ、下からの突き上げに長時間耐え続ける必要もない。これからは短時間で快適且つ安全に半島の東西を行き来出来るようになるのだ。この交通インフラの変革は誰もが歓迎すべき出来事である。

しかし極一部だが素直に喜べない者達がいた。鉄道の延伸開業毎に路線の縮小を迫られ、最終的に横断線からの撤退を余儀なくされたかつて渡島半島横断線で名を馳せた覇者達だ。最後の最後まで鍔迫り合いを演じた馬車と乗合自動車は、共倒れの形で表舞台からひっそりと姿を消した。

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◆激藪の奥に見え隠れする路肩弱しの警戒標識

ある者は特定の停車場を縄張りとする地域密着型のタクシー業に転身し、ある者は運輸業とは無関係の異業種の扉を叩いた。いつの時代も革命的な変化が生じると旧勢力は保守に徹し、ジリ貧の末に人知れず市場から姿を消す。逆に逆境を好機と捉え再び上昇気流に転じる者も少なからず存在する。

商機を求め未開の鉄道空白地帯に照準を定めた水上は、間違いなく後者である。瀬棚線が全線開業した暁には、瀬棚及び北檜山が主要ターミナルとなり、南北に走る西海岸線の旅客輸送が活気を帯びるはず。横断線の縮小で関係者の誰もが悲観する中、水上は南北線の青写真を描いていたのかも知れない。

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◆新旧道の高低差が10m程に縮まり手の届く位置にある

瀬棚線の全線開通と前後して行動に移した水上は、北檜山駅と久遠を結ぶ路線を開設する。1日3往復で片道1円90銭の相変わらずの暴利ではあったが、横断線同様好評を博し車内は常に満員御礼であったという。水上の辿った軌跡をたまたまツイていたという強運説で片付ける者もいるだろう。

確かに一度掴んだ気流に乗じた感は否めない。大ヒットした曲に似たような曲を連続リリースさせる大手レコード会社の手法に重ならなくもない。当時は瀬棚と江差を結ぶ西海岸鉄道も検討されていたから、鉄道未通区に当りを付けた水上の戦略がたまたまヒットしたという見方が出来なくもない。

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◆現役宛らの全く色褪せていない警笛鳴らせの標識

ただ僕は用意周到に設計されたプランを練りに練り、粛々と計画を実行に移すと共に、経験から導き出された最適解を現実に落とし込む事で、事業を成立させた氏の手腕によるところが大きいのではないかと睨んでいる。三共自動車部の運営は御粗末極まりなく、事業モデルとしては全く参考にならない。

しかし水上は三共自動車部のそれを失敗とは捉えなかった。むしろ貴重な教材として活かした。三共自動車が目が飛び出るほどの厚遇で運転手を迎え入れたのに対し、水上は自らがハンドルを握る事で人件費の大幅な削減に成功している。水上は三共自動車部の失敗の原因を高コスト体質と見抜いていたのだ。

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◆終盤の終盤になっても密林の様相を呈す激藪山道

前例を重んじる我が国の伝統に従えば、横断線の二番バッターである水上自動車商会の運営は楽で、先行者の駄目出しを行った改善プランには賛同も得易かったに違いない。但し太櫓越の山道に於いては乗合自動車の先駆者は無く、水上が人柱になったのは言うまでもない。

横断線では先行者によって敷かれたレールの上で一定の成果を収めた水上であるが、前例の無い南北線では成功する保証はどこにも無い。想定外の事態で三共自動車部のように玉砕する可能性も無きにしも非ずだ。実績のない山道を手探りの状態で営業するとなると、蓋を開けてみなければ分からない。

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◆未舗装路と舗装路の境界で簡易ゲートによる封鎖措置

北檜山と久遠を結ぶ山道への挑戦は、一見すると無謀な試みにも思える。果たして前例無き未踏区へ水上がリスクを冒してまで一番乗りをするであろうか?そう考えた時、大枠での先行者の存在を疑わずにはいられない。自動車以外の陸路に於ける旅客輸送の要、そう乗合馬車である。

瀬棚と江差を結ぶ乗合馬車の一次資料は現時点で未発見である。従ってあくまでひとつの仮説に過ぎないが、水上は乗合馬車の営業成績を踏まえた上での参入なのではないか。海の物とも山の物とも分からない手付かずの路線に比し、僅か数年でも何等かの実績さえあれば営業の指針になる。

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◆簡易ゲートの頭上に草塗れのステルス標識を捉える

明治31年、従来の太田山道から太櫓越山道へと覇権が移行する。明治の半ばになって今更徒歩道サイズの新道を設けるとは考え辛く、これは人畜のみが有効の刈分道から馬車道への昇格と捉えるのが妥当だ。

同42年には太櫓越峠の頂きに駅逓が設けられ、新道を行き交う者達への利便が図られる。郵便物は頂上で交換されたとあり、水量豊富な沢がある峠で郵便馬車に従事する馬が水飲み休憩をする姿が容易に目に浮かぶ。

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