教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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太櫓越峠(24)

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太櫓越峠(ふとろごしとうげ)の取扱説明書

渡島半島の東側を南北に走る海岸線は、我が国で五番目に重要な路線にして、北海道随一の幹線である事に異論の余地はない。その東海岸線を陽とするならば、瀬棚と江差を結ぶ西海岸線は陰となる。山陽道と山陰道の例を出すまでもなく両者の交通量には決定的な差があり、結果開発は遅々として進んでいない。事実これより挑む山道は昭和の晩年まで直に鞍部を跨いでいたし、鉄道は今も昔も西海岸線を走破した試しがない。結果太櫓越山道が唯一の生命線となる訳だが、山道に注がれた先人の血と汗の結晶は、トンネル開通後も極上の峰越フラットダートなる副産物を齎す。その恩恵に授かったドライバー&ライダーは少なくない。走破済という経験則から今度こそR8での峠越えを立証したい。下町ロケットアウディ計画起死回生編、始まります。

 

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◆近年の設置にしか見えない純白のガードレール

大正の半ばに地元の期待を一身に背負って開業した三共自動車部は、残念ながら3年という短命で操業停止に追い込まれ、鉄道へのバトンタッチをせずして倒産の憂き目に遭った。本来であれば彼等が太櫓越の山道に活路を見出すはずであった。何故ならこの道を水上自動車商会が疾走しているからだ。

もしも三共自動車部が赤字覚悟の上で自転車操業を続けていたならば、彼等はここ太櫓越でV字回復を遂げていた可能性は大いに有り得る。何故なら北檜山と久遠とを結ぶ路線は、大正末期から現在に至るまで一度も鉄道に脅かされた経験のない完全なるドル箱路線であるからだ。

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◆頭上の密林に浮かぶスリップ注意の警戒標識

仮に三共自動車部が昭和30年代のバス黄金期を経験したならば、創業者の桝田量・菅原次郎・高橋長作の三名は地元に立派なバス御殿を築き、晩年は右手団扇の優雅な隠居生活をしていたに違いない。果たして彼等が享受するはずであった果実は、水上利次郎が全て掻っ攫っていったのであろうか?

違う、彼等の後を継いだ水上もまた辛酸を舐める事になるのだ。昭和4年12月に沿線住民の悲願であった瀬棚線が開業し、ほぼ一人勝ちに等しい状態にあった水上自動車は、半強制的に路線の縮小を余儀なくされる。物理的には鉄道との共存も可能ではあるが、客争奪戦の勝ち目はほとんど無いに等しい。

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◆元バス道とは思えない想像を絶する激藪が行く手を拒む

鉄道と乗合自動車の運賃の乖離は激し過ぎて、競争する以前に運賃格差で決定的な優劣が生じている。瀬棚⇔国縫間の乗合自動車賃が3円50銭であるのに対し、鉄道は僅か77銭と1/5であるから全くお話にならない。これでまともに勝負するとなると狂気の沙汰である。

経営者の百人が百人共に鉄道の補完に軸足を移すだろう。市場の原理原則に従い水上も鉄道との連携を図り連絡輸送に従事する。瀬棚線が花石(珍古辺)まで暫定開通したその冬は、定期馬橇への乗り継ぎとなり水上の出番は無かったが、昭和5年の春には鉄道輸送の一端を担い多忙を極める。

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◆高低差20mを隔てる新旧道を二分するガードロープ

相変わらず珍古辺峠の難所が立ちはだかるも、走行距離が短縮された事と汽車の発着時刻に間に合わせるピストン輸送で、難所を越す回数は格段に増えた。その頃ライバルの乗合馬車及び馬橇も瀬棚⇔花石間への縮小を余儀なくされ、彼等もまた早晩横断線からの退場を迫られる運命にあった。

その転機は思いの外早く訪れる。昭和5年10月に今金⇔花石間が延伸開業し、全線開業まで僅か1/3を残す所となったのだ。1年を待たずしての営業路線の縮小には関係者の誰もが愕然とした。客の立場としてはもう珍古辺峠を越さずに済むし、快適且つ快速になるのだから有難い事この上ない。

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◆旧R229上で息絶えた黒い魔物の成れの果てを捉える

それに加えもうこのような害獣に怯える必要もないのだ。当時も乗合自動車にはクラクションという有効な手段はあったが、乗合馬車にはラッパという古典的な手法しか黒い魔物に対処する手立てはなく、歩行速度よりも若干速いだけの鈍行移動では、いつ出合い頭で対峙してもおかしくない危険性を孕んでいた。

乗合自動車は卓越したスピードも然る事ながら、衝突したら羆もタダでは済まない鉄の塊である上に、鋼製のボディが攻撃から身を守る盾にもなる。三毛別事件の発生からまだ日の浅いこの時期の高額な運賃は、セキュリティ面での上乗せ分を少なからず含んでいたのではないかと僕は睨んでいる。

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◆人力では微動だにしない巨石が複数個転がっている

時は大正4年12月冬眠に失敗した羆、通称“穴持たず”が留萌管内は苫前村の小さな集落を襲った。死者7名は記録に残る我が国最大の獣害事件で、北海タイムスの約一ヶ月に及ぶ長期報道により事件は道の内外に知れ渡り、北の大地の人口密度の低いエリアの地域住民は戦慄の恐怖に駆られる。

その昔はロープウェイが安全索道と謳ったように、セキュリティが脆弱な馬車に対し乗合自動車が必要以上に安全を強調したであろう事は想像に難くない。何せ現場はいつ何時人喰い巨大熊が現れても不思議でない羆の巣窟であるから、人々は惜しみなく身銭を投じても何等おかしくはない。

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◆マカダム舗装の如し踏み締められた硬質な路面

片道3円50銭のぼったくりバーに等しい割高な運賃は、渡島半島横断乗合自動車が開業する僅か数年前に発生した三毛別事件が無関係でなく、鉄道無き時代の勝者の論理だけでは片付けられない側面がある。

人々を苦しめた乗合自動車の暴利にもやがて終止符が打たれる。昭和7年11月瀬棚線の瀬棚⇔今金間が延伸開業し、連絡輸送の必要性が断たれた乗合自動車業者並びに馬車馬橇業者は、その時を以て市場からの撤退を余儀なくされる。

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