教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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太櫓越峠(26)

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太櫓越峠(ふとろごしとうげ)の取扱説明書

渡島半島の東側を南北に走る海岸線は、我が国で五番目に重要な路線にして、北海道随一の幹線である事に異論の余地はない。その東海岸線を陽とするならば、瀬棚と江差を結ぶ西海岸線は陰となる。山陽道と山陰道の例を出すまでもなく両者の交通量には決定的な差があり、結果開発は遅々として進んでいない。事実これより挑む山道は昭和の晩年まで直に鞍部を跨いでいたし、鉄道は今も昔も西海岸線を走破した試しがない。結果太櫓越山道が唯一の生命線となる訳だが、山道に注がれた先人の血と汗の結晶は、トンネル開通後も極上の峰越フラットダートなる副産物を齎す。その恩恵に授かったドライバー&ライダーは少なくない。走破済という経験則から今度こそR8での峠越えを立証したい。下町ロケットアウディ計画起死回生編、始まります。

 

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◆臼別温泉との分岐点より道幅は二車線規格に膨張する

太田山道 ⇒ 太櫓山道/M31

太田山道とは安政4年の竣工時より供用される幕府御墨付きの公道である。従来の船舶による移動を補完する陸上輸送の要として機能した幹線路で、瀬棚と久遠の峻嶮な山岳地帯に風穴を開けた画期的な道路であった。

しかしながらその実態は人畜のみが有効の登山道に毛が生えた程度の小径で、辛うじて獣道でないと分かる程度の踏分道&刈分道の御粗末なスペックであった。それに代わる期待の新道として開削されたのが太櫓越経由の山道である。

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◆僅か数軒の人家が建ち並ぶ小集落を駆け抜ける旧道

明治25年に開削された利別山道(渡島半島横断線)が刈分道であるから、その6年後に登場した太櫓山道も似たり寄ったりと規格ではないのかという意見もあろうが、幕末から連綿と継承され供用されてきた歴史道と、アイヌも通うか通わぬかといった怪しい路線を単純に比較するのはナンセンスである。

太田山道について語れば一冊の本が出来上がるほど内容が濃く、その経緯なり背景なりをここで語り尽くせるものではない。その歴史道が従来の路と干渉しない全くの別ルート及びゼロベースで開削されるというのだから、普通に考えて馬車道の新造と捉えるのが妥当だ。

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◆旧道沿いには松が植えられ街道宛らの様相を呈す

但し繰り返すが瀬棚⇔大成間の馬車道竣成を記した一次資料も、それに準じた紀行文等の二次資料も未発見のままである。参考資料としては明治42年に開設し昭和19年に廃業した太櫓越峠の駅逓の存在が挙げられるが、これとて馬車の存在を決定付けるものとしてパンチ不足は否めない。

直接的間接的に関わらず関係する市町村の史料をざっくりと洗ってみたが、それらしき文言には触れず裏で申し合わせたかのように馬車の言及を避けている。新道に切り替わったがいいが、その実態は太田山道と何等変わらぬ人畜のみが有効の小径でしたキャハ!という羞恥心がそうさせているのであろうか?

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◆現役時代の案内板がそのまま使われている

ただ馬車に触れないのとは裏腹に、それを示唆するかの如し文言が関係資料に散りばめられている。

明治22年の内国通運会社の定期路線中に函館−瀬棚間陸上運送線がある。函館から福山・江差・久遠・瀬棚を一ヶ月ないし三ヶ月に一回陸送が行われた。

明治22年最大の難関である見市川、相沼内川の木橋架設が完了し、従来の人馬道から馬車の通れる道とした国道の完成によって江差−熊石間に二頭立の乗合馬車が走るようになった。

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◆太櫓越橋の手前で新旧国道が重なる信号機の無い交点

異なる市町村史から拾い上げた文言を総括すると、明治22年というのがキーである事が分かる。先行する函館⇔江差間より西海岸線を北上する形で順次延伸した馬車道は、明治22年に熊石に到達する。その勢いを以てすれば明治20年代末には馬車道が久遠に達していたであろう事は想像に難くない。

その流れに乗じて太櫓山道が拓かれたと考えるのが至極自然であるが、肝心要の大成町史は以下のように述べている。

明治二十二年江差−瀬棚間道路の開削が始まり、二十三年には二頭曳馬車の運行が可能になったという記録があるが詳細は分からない。

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◆太櫓越橋の先に待つ函館バスの峠下停留所

北檜山町史は大正7年の時点で乗合馬車が若松まで営業路線を延ばしている事実に言及しているが、その勢いで太櫓越を経て久遠まで足を伸ばした決定的な証拠は見当たらない。仮に馬車営業の実績無しに水上が自動車で先鞭を付けたとなると、掛け値無しの偉業と言っても過言ではない輝かしい功績だ。

だが僕の持論はこうだ。明治31年の新道開通を以て瀬棚⇔久遠間に馬車が行き交い、明治最晩期遅くとも大正年間には乗合馬車が太櫓越を越していた。その実績と横断道路からの締め出しによって水上が目を付けたのが久遠線で、西海岸線の南下ルートには前例があったのではないかと僕は睨んでいる。

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◆昭和7年の開通以来生命線として機能する函館バス

臼別温泉との分岐点で舗装路に変わった旧道は、僅か数軒の小集落を抜け現道にぶち当たる。その直後には峠下と刷られたバス停がポツリと佇んでいる。バスが峠越えをしていた時代に頂上付近にはバス停はおろか人家の一軒も無かったと、峠下停留所背後の一軒家に住まうおいちゃんは語る。

確かに頂上付近には何もない。但しこれだけははっきりと言える。水上が自らハンドルを握る乗合自動車は、太櫓越駅逓の正面を幾度となく駆け抜けている。駅逓取扱人は知っている、先鞭を付けたのが水上か、それとも乗合馬車なのかを。

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