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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>廃道>北海道>太櫓越峠 |
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太櫓越峠(20) ★★★★★ |
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太櫓越峠(ふとろごしとうげ)の取扱説明書 渡島半島の東側を南北に走る海岸線は、我が国で五番目に重要な路線にして、北海道随一の幹線である事に異論の余地はない。その東海岸線を陽とするならば、瀬棚と江差を結ぶ西海岸線は陰となる。山陽道と山陰道の例を出すまでもなく両者の交通量には決定的な差があり、結果開発は遅々として進んでいない。事実これより挑む山道は昭和の晩年まで直に鞍部を跨いでいたし、鉄道は今も昔も西海岸線を走破した試しがない。結果太櫓越山道が唯一の生命線となる訳だが、山道に注がれた先人の血と汗の結晶は、トンネル開通後も極上の峰越フラットダートなる副産物を齎す。その恩恵に授かったドライバー&ライダーは少なくない。走破済という経験則から今度こそR8での峠越えを立証したい。下町ロケットアウディ計画起死回生編、始まります。 |
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◆何故か根曲竹の侵食が著しく抑制されている浅藪区 一週間でタイヤ交換を余儀なくされる悪路 新品のタイヤであればノーブランドでも軽く2万kmは持つ現代に比し別次元の世界で、毎週末のタイヤ交換が必至となると一家に一台そして一人一台という今日の自動車社会は成立しなかったと思うのは僕だけではあるまい。 苦労した先人には申し訳ないが、その行為は面倒臭いの一言に尽きる。南国在住の者はタイヤ交換なんて基本年単位であるし、雪国在住であっても基本は年二回であるから、週単位なんて狂気の沙汰以外の何者でもない。 |
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◆藪底で息を潜めるぴっくりポンの警戒標識を捉える イエローハットが「イエローハットに行っちゃお、毎週行っちゃお!イエローハットに行っちゃお、毎週替えちゃお♪」なんてCM流したら、日本中の主婦達が日本死ね!と暴言を吐くに違いない。タイヤの寿命が僅か一週間となると、一般的な世帯では家計は火の車だ。 当時のフォード一台の値段が1250円で、車両本体価格の5%がタイヤ代(4本)と仮定して1回の交換で62.5円、月に250円というのは毎月の売上が1050円の事業に対する消耗品のコストとしては桁違いに大きい。それにガソリンやオイル交換に車体のメンテ費用に車検に税金に保険が上乗せされる。 |
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◆太林寺木人拳状態で藪の隙間から倒木が数本突き出す それで漸く車を動かせる状態になったのであり、そこに運転手の給料が加わる。事業が正常に稼働する為の必須コストを差し引くと、経営者の取り分が雀の涙というのも無きにしも非ずだ。経営者が他に旅館業など手掛け片手間にやっているとか、地域貢献の慈善事業であるというのなら話は別だ。 自動車による旅客運輸のみで事業を成り立たせるには、コストの大幅な削減は必至であり急務である。三共自動車の費用対効果は低く全く採算が取れていない。コスパが悪過ぎて何等かの改善策を打ち出さねば事業は当然ながら行き詰まる。返済の目途が立たず資金ショートを起こすのは時間の問題だ。 |
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◆道幅が一車線を割り込み極度に狭まる太櫓越の最狭区 運賃に上乗せすればいいというのは安直で、そう簡単に運賃の値上げは出来ない。何故ならライバルの馬車の運賃は瀬棚⇔国縫間が片道1.5円であり、その時点で既に2円差が生じているからだ。いくら速達が売りの自動車でも、常識外れの運賃設定では客離れを誘発しかねない。 赤字分を補おうと客に転嫁するとなると、馬車に鞍替えする客がいないとも限らないし、チケットの不買運動でも起きたらそれこそ即営業停止へと追い込まれる。三共自動車部は決定的な打開策を見出せぬまま、ズルズルと赤字経営をしていたものと推察される。その結果僅か三年で廃業の憂き目に遭う。 |
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◆最狭区の崩壊斜面に横たわる折れたポール 組織としての三共自動車部はとても褒められたものではない。勢いに任せて乗合自動車業を興し華々しいスタートを切ったはいいが、いざ蓋を開けてみれば内情はズタボロで、抜本的な改善策を打ち出せずにダラダラと自転車操業を続け破綻に追い込まれた経緯は、なるべくしてなったとの厳しい見方もあろう。 ただ乗合自動車は冬期休業を余儀なくされ、収益ゼロの状態でも銀行への返済や運転手への給料は滞りなく履行せねばならない。いくら満員御礼のドル箱路線とはいえやってみなけりゃ分からない未知なる部分も多く、前例が無い中での挑戦は損得勘定抜きに称賛に値する。 |
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◆最狭区は御覧の通りミゼットでも厳しい狭さ 彼等の行動を無謀の一言で片付ける訳にはいかない。大正8年にバラス仕込みのバス道が完成と行政は大々的に謳っており、事業計画も練りに練りそれ相応の勝算があっての起業であろうが、後年ワトキンス調査団の指摘にもあるように、あの頃の日本の道は余りにも酷過ぎた。 確かに馬車道からバス道への進化は画期的であった。しかし現代の路に比し構造は致命的に脆弱で、上物の自動車も発展途上にある不運も重なり、今にしてみれば失策に映る彼等の事業も、当時は革新的且つ斬新的なもので、方向性が間違っていないのは全便満席という実績からも明らかだ。 |
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◆最狭区を過ぎると再び密林地帯で藪との格闘が始まる 果たして三共自動車部の営業は失敗に終わったのか?僕はそうは思わない。間違いなく彼等は金字塔を打ち立てた。三共自動車部の業績は運営面で言えば失策であろう。しかし彼等はそれを補って余りある“前例”という偉大な足跡を残した。 良くも悪くも水上は三共自動車を手本としたのは間違いない。渡島半島横断線の厳しい現実を白日の下に晒し、そのDNAを引き継いだ水上、その先の函館バスの礎を築いた彼等は、もっと称えられて然るべきと僕は考える。 太櫓越峠21へ進む 太櫓越峠19へ戻る |