教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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太櫓越峠(19)

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太櫓越峠(ふとろごしとうげ)の取扱説明書

渡島半島の東側を南北に走る海岸線は、我が国で五番目に重要な路線にして、北海道随一の幹線である事に異論の余地はない。その東海岸線を陽とするならば、瀬棚と江差を結ぶ西海岸線は陰となる。山陽道と山陰道の例を出すまでもなく両者の交通量には決定的な差があり、結果開発は遅々として進んでいない。事実これより挑む山道は昭和の晩年まで直に鞍部を跨いでいたし、鉄道は今も昔も西海岸線を走破した試しがない。結果太櫓越山道が唯一の生命線となる訳だが、山道に注がれた先人の血と汗の結晶は、トンネル開通後も極上の峰越フラットダートなる副産物を齎す。その恩恵に授かったドライバー&ライダーは少なくない。走破済という経験則から今度こそR8での峠越えを立証したい。下町ロケットアウディ計画起死回生編、始まります。

 

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◆進行方向左手にコンクリート製の法面を捉える

大正12年、後の国道230号線を名乗る利別街道に乗合自動車が疾走する。瀬棚⇔国縫間の60kmを乗換無しでダイレクトに結ぶ路線は、只今絶賛工事中の瀬棚線の代替輸送線として大いに好評を博し、瞬く間にドル箱路線と化した。経営者は他でもない水上利四郎である。

断っておくが水上利四郎は渡島半島横断道路に路線バスの先鞭を付けた先駆者ではない。今から100年も前の話であるから広義では先鞭を付けた人物との解釈も成り立つが、廃業路線を継承した2番バッターに過ぎない。その前身となる三共自動車部を抜きにこの界隈の峠史は語れない。

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◆藪密度が濃く時間的都合で大雑把にしか刈れない

大正8年積年の懸案であったバラス道、通称バス道が竣成し、利別山道は自動車の往来を許す道へと生まれ変わる。これを機に運輸事業に乗り出したのが三共自動車部で、桝田量・菅原次郎・高橋長作の共同出資による経営で、統括責任者のポストには桝田量が着任する。

当時は北海道各地で乗合自動車業が勃興した時期で、同時多発的に起業した業者はどこも手探り状態にあった。勿論三共自動車部も例外ではなく、やってみなけりゃ分からないというリスキーな運用であったのは間違いない。千歳や苫小牧のような起伏の少ない平坦路線ならまだいい。

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◆地上15cm前後で刈った根曲竹はまるで剣山のよう

利別山道には珍古辺峠と稲穂峠の二つの難所が待ち構え、それを克服出来るか否かが安定運用を大きく左右する。結果的にゴーサインが出たという事は、試験運行ではそこそこの成績を残したのであろう。だが蓋を開けてみれば崩落に決壊、悪路に浸水と散々な結果に終始し苦労は絶えなかった。

それでも瀬棚国縫線は常に満員御礼であったというから、目の付け所は間違っていない。彼等の経営が失敗した最大の理由、それは運転手への報酬が高過ぎたの一点に尽きる。自動車黎明期の当時は運転手そのものが希少な存在で、自動車を乗りこなせるというだけで引く手数多であった。

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◆現道と離れつつありここら辺では走行音は聞こえない

勿論トラックの運転手と違って人の命を預かる立場であるから、乗合自動車の運転手はそれなりの技量を必要とする。免許を所持していれば誰でもなれるという訳ではない。腕が良いと評判のプロドライバーの引く抜き合戦が横行し、わざわざ東京から厚遇を餌に引き抜いてくる事例もあった。

そんな訳で乗合自動車の運転手は花形職業で、今でいうジャンボジェット機のパイロット並みのポジションにあったという。当時の事情を踏まえれば高給は当たり前で、逆にそれ無くして経営など成り立たない。従って常軌を逸した破格の給料も時代背景を精査すれば頷ける話だ。

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◆ドライバーに路肩弱しを伝える控え目な警戒標識

それに何と言っても渡島半島横断道路史上初の乗合自動車にして二つの難所を含んでいるから、そんな難路線を快く引く受ける奇特なドライバーがいるはずもなく、運転手の確保に苦慮したであろう事は想像に難くない。高給を叩いて然るベッキーなのは子供でも分かる話だ。

ただ当時の利別村長の給料が月給100円であるのに対し、乗合自動車の運転手が90円というのはどうにも不釣り合いで、貰い過ぎの感は否めない。ただ運転手達が我々は命を張っている、あなた方は何を張るのか!と詰め寄られストライキも辞さないとなると、破綻を恐れる経営者は首を縦に振らざるを得ない。

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◆激藪に浮かぶデリネーターには大いなる違和感がある

そういった一悶着無しに友好的に話は進んだかも知れないが、経営者は得てして基本給を抑えボーナス等で対応したいと考えるから、落とし所が90円だったとみるのが妥当だろう。瀬棚と国縫の間を結んだ乗合自動車の運賃は片道三円五十銭で、当時のフォードは5人乗りである。

常時満席であったというから片道で17円50銭、1日1往復であった当時の売り上げは往復で35円、運休日無しで毎日稼働すれば月収は1050円で、フォード一台が1250円であるから単純に車両代は一ヶ月ちょいでペイ出来る計算だ。これなら高給を払っても運営は軌道に乗るように思える。

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◆泥濘と化した路面中央を避け路肩すれすれを通過する

だが現実として三共自動車は僅か3年で営業を停止している。笑いが止まらないドル箱路線に映るが、その実態は我々が想像する以上に凄まじいものであった。なんとタイヤ四本を一週間で履き潰してしまったというから開いた口が塞がらない。

年に二回夏用と冬用タイヤを履き替えるだけでも煩わしいのに、なんと当時は悪路により摩耗が激しくマモーミモーの末に僅か一週間でつるピカハゲ丸君になるという恐るべき高コスト体質にあったのだ。

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