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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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花石峠(25) ★★★★★ |
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花石峠(はないしとうげ)の取扱説明書 花石と聞いてすぐに北海道は道南の今金町のあの花石か!と思い浮かぶとしたら、余程の北海道通か当地生え抜きの人間に限られる。しかも花石峠の存在自体を認識しているとなると、もうその時点で廃道コンシェルジュを名乗ってもいい。何せ廃道仙人掘淳一氏率いるコンターサークルSが徒歩による縦走にも拘らず断念せざるを得なかった重鎮御墨付の強烈廃道である。廃道スナイパーの狙撃対象としては申し分ない格好の題材だ。現状を想像するだけでも武者震いするが、ターゲットは美利河峠の終点である花石郵便局から目と鼻の先に位置する。美利河峠の今昔を白日の下に晒した今、返す刀で花石峠を攻略しない手はない。美利河と花石の二部構成による後編の作戦名は、下町ロケットガウディ編に便乗しアウディ計画とする。アウディR8でどこまで突っ込めるのか?その辺も見極めつつ全貌を解明すべく侵攻を開始する。 |
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◆軽トラかトラクターしか行き来しないような狭隘路 大正八年の道路整備によってバス道路が完成し定期乗合自動車が走るようになった。瀬棚町に住む桝田量・菅原次郎・高橋長作の三名が共同出資した三共自動車部の経営によるもので責任者は桝田量であった。 大正8年に乗合自動車が開業 繰り返すが横断道路が奥沢経由に変更されたのは戦後である。戦前・戦中・戦後と利別山道は一貫して珍古辺峠経由であったという歴史的事実は揺るがない。 |
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◆大正8年に瀬棚⇔国縫間を営業運転したT型フォード まだ後志利別川と並走する川伝いの路が影も形もない時代に乗合自動車が営業したとなると、それはつまり珍古辺峠を越えた事に他ならない。中里より見通しの利かない樹海を突き抜け、稜線を越え大草原の九十九折を経て、今は無き木橋で反転し赤髭橋へ至るあのガタボロダートを自動車が走破したのだ。 町史は大正8年の道路整備を掲げている。日頃の道路愛護精神に則った沿線住民の活動の賜物であろうか、なんと利別山道最古の車道を自動車が駆け抜けたのだ。僕が自動二輪車を引き連れて現場へ足を踏み入れる百年も前に、四輪のエンジン駆動車を持ち込んだ先駆者がいた事に驚きを隠せない。 |
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◆花石道路と連絡する工事用道路が利別山道にぶつかる 道路整備とは具体的には山道にバラスを撒いたとの解釈が妥当だ。泥濘問題は馬車時代から取り沙汰された懸案であるから、積年の課題を自動車への対応という名目で解決を図ったのではないか。実現するか否か不透明な鉄道誘致への焦りも道路整備を急がせた一端なのかも知れない。 大正の半ばと言えば、鉄道空白エリアで一旗揚げようと事業者が乱立した時代に重なる。ダンピングによる過当競争でライバル共々疲弊しつつも、消耗戦を制した者がイニシアチブを取れるとあって、バス業界は列島全域で戦国時代宛らの様相を呈した。その渦中で渡島半島も例外ではなかった事の証左だ。 |
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◆多少の水没でも苦にしない半島横断定期乗合自動車 この時使用した車は黒塗で幌付き、アメリカ製フォード二台で二五00円。料金は三円五0銭と高かったが定員五人の乗合自動車はいつも満員であった。 定期乗合自動車は常時満員御礼 馬車に比して桁違いのスピードも然る事ながら、ゴムタイヤ&スプリングによる乗り心地の良さ、そして何と言っても乗り換え無しで瀬棚⇔国縫間を直行出来る利便性は計り知れず、乗合自動車は想像以上の好評を博す。 |
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◆乗合自動車が疾走したとは思えない農道のような道程 しかし悪路によるタイヤの傷みも激しく、運転手の給料も月給九0円と村長より一0円も高く採算が取れず、積雪期は休業しなければならなかった事などから三年で廃業となった。 運ちゃんの給料>村長ってどんだけ〜! バス道とは言え全線未舗装の悪路、運転手への異常なまでの厚遇、最後まで実現し得なかった通年運行等が響き、瀬棚と国縫を結んだ乗合自動車は僅か三年で廃業の憂き目に遭う。この短命が幻の横断バスと称される所以だ。 |
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◆拡張されて久しい珍古辺峠越えゴール直前の直線区間 自動車の運転手が花形とされた時代は確かに存在する。今のように猫も杓子も免許を所持するようになったのは高度経済成長期以降で、聞き取りに於いても昭和30年代の教習所では女性の受験数が男性100人に対して1人ないしは2人であったというから、戦前がどうであったかは言わずもがな。 ましてや大正時代ともなれば運転手の存在は希少で、役人等の御偉方より高給であったとしても何等おかしくはない。しかも札幌や小樽や函館といった市街地ではなく、舞台は開拓まもない利別原野、それも珍古辺峠と稲穂峠の二つの難所を跨ぐ山道であるから、運転手の確保は至難の業であったに違いない。 |
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◆瀬棚線に実践投入された車長のあるT型フォード改 ここに一枚の古写真がある。フロントマスクはT型フォードであるが、奥行きがあり6人乗り或いは8人乗りのようにも映る。事実元今金町長安部氏の回想録には、乗合自動車(十人乗程度改造)との文言が認められる。 これは潰れた三共自動車部のものなのであろうか?違う、写真には大正十二年とある。三共自動車は廃業して久しい。何なんだこの一団は?いよいよ真打の登場だ。大正年間の瀬棚⇔国縫間に大型自動車を走らせた剛腕がいるのだ。 花石峠26へ進む 花石峠24へ戻る |