教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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花石峠(26)

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花石峠(はないしとうげ)の取扱説明書

花石と聞いてすぐに北海道は道南の今金町のあの花石か!と思い浮かぶとしたら、余程の北海道通か当地生え抜きの人間に限られる。しかも花石峠の存在自体を認識しているとなると、もうその時点で廃道コンシェルジュを名乗ってもいい。何せ廃道仙人掘淳一氏率いるコンターサークルSが徒歩による縦走にも拘らず断念せざるを得なかった重鎮御墨付の強烈廃道である。廃道スナイパーの狙撃対象としては申し分ない格好の題材だ。現状を想像するだけでも武者震いするが、ターゲットは美利河峠の終点である花石郵便局から目と鼻の先に位置する。美利河峠の今昔を白日の下に晒した今、返す刀で花石峠を攻略しない手はない。美利河と花石の二部構成による後編の作戦名は、下町ロケットガウディ編に便乗しアウディ計画とする。アウディR8でどこまで突っ込めるのか?その辺も見極めつつ全貌を解明すべく侵攻を開始する。

 

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◆インチキ二車線と同程度まで拡張されている利別山道

大正十二年瀬棚の水上利四郎が乗合自動車を始めた。車は新型フォード一九二三年型で、六人乗りで自ら瀬棚・国縫間を運行した。一日二往復であった。

大正12年乗合自動車営業再開

三共自動車の奮闘は無駄ではなかった。様々なリスク要因で好成績は挙げられなかったが、三共自動車部の実績があるからこそ水上氏の営業に繋がる訳で、ゼロから手探りで構築した先代の尽力の上に成り立っていると言っても過言ではない。

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◆昭和初期の横断バスは十数人乗りの大型車両を投入

ここに一枚の古写真がある。タイトルには瀬棚・花石間のバスとあり、撮影時期は昭和4年頃とされている。そのボディは大正年間に撮影されたものとは明らかに異なる。車長及び乗客の数から定員が二桁であるのは間違いなく、下手すると15、6人は乗れそうなキャパがある。

昭和4年と言えば瀬棚線の花石⇔国縫間が先行開業した年だ。どこもそうだが鉄道の延伸開業に合わせてバスの営業路線は縮小する。瀬棚と国縫の間を1日2往復していた横断バスは、鉄道の延伸開業に呼応する形で、主役から脇役へと降格を迫られ勢力を縮小しながら西へと活路を求めて行く。

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◆利別山道と旧国道と花石道路が一堂に会す北住吉駅前

昭和5年の秋には瀬棚線の今金⇔花石間が延伸開業し、水上自動車は瀬棚⇔今金の短絡ピストン輸送を余儀なくされる。それでも横断線はドル箱路線であるから文句は言えない。花石始発⇒今金始発と追い詰められた水上自動車は、昭和7年の瀬棚線全線開通によって息の根を止められる。

大正12年から10年の営業期間を経て、横断バスは静かに歴史の幕を下ろした。現代に於いてこの歴史的史実はほとんど語られる事がない。何せ花石の婆ちゃんでさえ三四郎を乗合自動車が駆け抜けた事実を知らされていないのである。婆ちゃんがバスの存在を知らないのだからその末裔が知る由もない。

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◆明治29年測量時には人畜のみ有効の駄馬道のみ

大正8年に鳴り物入りで登場した乗合自動車は、足掛け14年という短命で歴史の表舞台から消えた。一度は挫折し消えかけた灯であったが、水上氏の尽力により息を吹き返し、大型車の導入で鉄道に勝るとも劣らない営業成績を記録し、陸上交通史上類稀なる足跡を残した。

昭和4年12月13日の花石駅開業を以て乗合自動車は稲穂峠を越えなくなったが、それ以降も鉄道からの乗継客を満載したバスは珍古辺峠を越え力走した。昭和5年10月30日の今金駅開業は珍古辺越えの路線バスをも消滅させたが、その道中に刻まれし人々の想いや軌跡だけは揺るがない。

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◆昭和20年現在では本線が珍古辺峠越えになっている

あの近年稀に見るガタボロ山道を、鉄道からの乗継客満載の大型バスが駆け抜けた。ほとんど表には出ないこの史実に興奮しないで我々は一体全体何に感嘆するというのか?

自動車時代迎えても途中再々故障の為半日位要したり運行不能で途中停止の不運も生じた。初代水上利四郎運転の営業は苦労された。

安部氏は回顧録で当時の様子を振り返る。考えてもみて欲しい。水上社長自らが大勢の命を預かってハンドルを握り続け峠を越えたのだ。バス事業を成立させる為の苦肉の策とはいえ、事業者が運転手を兼務するのは並大抵の事ではない。

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◆昭和32年現在では本線が奥沢経由に変更されている

しかもライバルと凌ぎを削っての事であるから、その心労たるや半端ではない。ライバル?そう、横断線には乗合自動車と競合する強力なライバルがいた。他でもない乗合馬車である。乗合馬車と乗合自動車は鉄道が開通するその日まで熾烈な客争奪戦を繰り広げていたのだ。

大正八年道路も整備されバス道路も完成し乗合自動車が走るようになると客馬車の客は半減したが、バス料金は客馬車の四、五倍はあったので結構乗合馬車の利用者もあった。

(急行)乗合自動車VS乗合馬車(鈍行)

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◆三区のリレー形式で運行された横断馬車道の全体図

乗合自動車と乗合馬車は鉄道が全線開業する直前まで盾を競っていたが、料金の乖離が激しく棲み分けは出来ていた。瀬棚線の全通で共倒れとなったが、忘れてはならないもうひとつの乗り物がある。冬期の運行に欠かせなかった乗合馬橇である。

流石のバスも雪の前には歯が立たない。積雪期は乗合馬橇に委ねる他なかった。明治43年より20年の長きに亘り横断線のもうひとつの主役であり続けた乗合馬橇の功労を称えない訳にはいくまい。落橋によりアウディ計画は失敗に終わった。しかし橋さえ健在であれば走破出来たと僕は今でも確信している。

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