教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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花石峠(24)

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花石峠(はないしとうげ)の取扱説明書

花石と聞いてすぐに北海道は道南の今金町のあの花石か!と思い浮かぶとしたら、余程の北海道通か当地生え抜きの人間に限られる。しかも花石峠の存在自体を認識しているとなると、もうその時点で廃道コンシェルジュを名乗ってもいい。何せ廃道仙人掘淳一氏率いるコンターサークルSが徒歩による縦走にも拘らず断念せざるを得なかった重鎮御墨付の強烈廃道である。廃道スナイパーの狙撃対象としては申し分ない格好の題材だ。現状を想像するだけでも武者震いするが、ターゲットは美利河峠の終点である花石郵便局から目と鼻の先に位置する。美利河峠の今昔を白日の下に晒した今、返す刀で花石峠を攻略しない手はない。美利河と花石の二部構成による後編の作戦名は、下町ロケットガウディ編に便乗しアウディ計画とする。アウディR8でどこまで突っ込めるのか?その辺も見極めつつ全貌を解明すべく侵攻を開始する。

 

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◆清流橋と併設するはずの赤髭橋は完全に空を切っている

右斜め前方には上ハカイマップ川を一跨ぎする清流橋の姿を捉える事が出来る。それはつまり利別山道が上ハカイマップ川の岸辺に達した事を意味する。藪の隙間に目を凝らすも橋梁はおろかその土台らしき遺構も見当たらない。右から左へと清流が流れ行く現場で山道は唐突に行き場を失っている。

そのシュチュエーションこそが橋梁の存在を示唆する訳だが、昭和22年現在の利別村橋梁一覧に赤髭橋の名は見当たらない。その理由として幹線を外れた点が挙げられる。御存知のように渡島半島横断道路は戦後のほとんどを後志利別川と並走する奥沢経由の大迂回路に軸足を置いている。

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◆かつては瀬棚線の鉄橋と山道の赤髭橋跡が併走していた

歴代の旧版地形図を紐解くと、昭和20年現在では珍古辺峠が本線を名乗っているのに対し、昭和32年現在では本線が奥沢経由に改められている。空白の12年間に横断道路の覇権が移行した結果だ。その間に赤髭橋が格下げ或いは消滅したとすれば時期的に矛盾は生じない。

清流橋が川面と10m前後の比高を有するのに対し、利別山道の路盤は河川との落差が5mに満たない。百年に一度の大水等を経験した事のない地域では、普段は大人しい川が豹変する姿を想像せよというのも無理な話で、それが容易であるならば全国各地の河川で氾濫被害は皆無でないとおかしい。

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◆対岸の広場は単なる支線の転回場にしか見えない

設計ミスと言ってしまえばそれまでだが、入植以来大した被害もなかった川に架かる橋が、何の変哲もない木橋であったとしても致し方ない。大正15年の洪水で赤髭橋そのものが流失したか否かは定かでないが、旧々道と旧国道の交点が至近距離にある以上、この辺りが逓送夫の殉職現場でほぼ間違いない。

寸断された藪道の対岸には真っ当な未舗装路が続いている。当たり前だ、利別山道を忠実に辿ってきたのだから、例え藪道であっても路の続きが無い方が不自然だ。瀬棚方面から進入した者は川岸で行き止まる支線と解釈するであろうが、僕等は知っている。未舗装路が並走する花石道路の礎である事に。

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◆築堤上を行く花石道路と並走する未舗装の利別山道

赤髭橋跡より先の路はダブルトラックが鮮明な真っ当な砂利道となっている。右手には土手上を走る花石道路があり、しばらくの間両者は付かず離れずで並走する。その光景は今に始まった事ではなく、瀬棚線の敷設工事が始まる昭和黎明期からほとんど変わらないと言っても過言ではない。

戦前は機関車と馬車が並走するシーンが日常そのものであったと考えられるが、乗客にしても貨物にしても運搬は鉄道が一手に引き受け、貨客は最寄駅への移動で済むようになったという。瀬棚線の開通で長距離移動は鉄道が担うようになり、町史は昭和初期にこの界隈の交通形態が激変したと訴える。

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◆砂利道をしばらく走ると山道は舗装路へと切り替わる

動力を人畜に頼っているうちは乗換が必至である。飛脚は宿駅でのリレー形式であったし、馬による速達便も伝馬制であった事を踏まえれば、三区間を乗り継ぐ横断馬車は至極真っ当な伝達システムで、郵便逓送もそれに倣い明治44年に渡島半島を三区でリレーする郵便馬車を走らせている。

明治四四年には郵便物も「郵便輸送定期馬車」によるようになったが、冬期間は積雪甚だしく逓送馬橇も不能となることがたびたびであった。昭和五年鉄道受渡便が開設され、輸送馬車は各駅にいくだけとなった。

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◆高低差が徐々に縮まる国道230号線の新道と旧旧道

明治26年の初代利別山道の開設を機に重量物はダンコ馬、軽量物は飛脚による輸送が始まってはいたが、同44年に専用の馬車&馬橇による通年定期輸送の実現に漕ぎ付ける。乗合馬車同様に3系統のリレー形式は鉄道の開業日まで継続され、瀬棚線開通後も郵便馬車は各停車場へと乗り入れている。

それだけを捉えれば渡島半島横断線の交通史は、馬車輸送を端緒とし鉄道輸送時代を経てバス輸送と転換を図ってきたように映る。正確を期せば定期ダンコマ⇒定期馬車⇒瀬棚線⇒函館バスと継承されてきた歴史がある訳だが、それだけでは輸送形態の変遷は不十分であると町史は語る。

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◆車両の往来があった事を予感させる古いカーブミラー

今一度取説を思い出して欲しい。本編は下町ロケットアウディ編と掲げている。アウディR8でどこまで突っ込めるのか?と問題提起しており、明治43年に開通した利別山道が純粋な馬車道であるならば、R8云々という状況にない。

当山道に走る戸建の異名を持つR8をマジ投入するならば、当然それなりの背景が無ければ成立し得ない。果たして利別山道は純粋な馬車道なのであろうか?違う、乗り継ぎ無しの次世代の乗り物が、鉄道開通以前に爆走した形跡があるのだ。

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