教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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花石峠(17)

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花石峠(はないしとうげ)の取扱説明書

花石と聞いてすぐに北海道は道南の今金町のあの花石か!と思い浮かぶとしたら、余程の北海道通か当地生え抜きの人間に限られる。しかも花石峠の存在自体を認識しているとなると、もうその時点で廃道コンシェルジュを名乗ってもいい。何せ廃道仙人掘淳一氏率いるコンターサークルSが徒歩による縦走にも拘らず断念せざるを得なかった重鎮御墨付の強烈廃道である。廃道スナイパーの狙撃対象としては申し分ない格好の題材だ。現状を想像するだけでも武者震いするが、ターゲットは美利河峠の終点である花石郵便局から目と鼻の先に位置する。美利河峠の今昔を白日の下に晒した今、返す刀で花石峠を攻略しない手はない。美利河と花石の二部構成による後編の作戦名は、下町ロケットガウディ編に便乗しアウディ計画とする。アウディR8でどこまで突っ込めるのか?その辺も見極めつつ全貌を解明すべく侵攻を開始する。

 

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◆山道を下るにつれ倒木等の障害物の数が増大する

頂上付近で別れた谷向かいの路は、今頃どこをどう伝っているのだろうか?あの道の行く末がふと気になった。馬車道は無駄に遠回りをしている。最短コースで先代は相対的に一足先に北住吉へ到達しているに違いない。尤も現況に於いては馬車道の方が到達時間は圧倒的に早い。

第一期利別山道はとっくの昔に廃道となっている。ここ馬車道も似たり寄ったりではあるが有効幅がまるで違う。従って先代はすっかり自然に還り森と同化していると考えられる。御覧の通り馬車道がそれ相応の荒廃っぷりであるから、先代の駄馬道が無事であるはずがない。

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◆第三ヘアピン以降は戦後の状態をほぼ完璧に保っている

最初の利別山道は路盤を持たない単なる刈分道であるから、1、2年人が通らないだけで元の状態に戻ってしまう。今でも部分的に道跡は辿れるかも知れないが、初代珍古辺峠全線を踏破するにはそれ相応の経験と覚悟がいる。遭難する可能性は十分有り得るし、熊との遭遇確率は飛躍的に高まる。

ここ明治道も野獣との遭遇確率は五分とも言えるが、大草原の第三ヘアピンまでは野生動物が不自然さを察知し身の危険を感じるであろうから容易には近寄らない。ただ第三ヘアピン以降は人の匂いが絶えて久しい。よって北住吉側は先代に比して安心安全とは言い難い。

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◆路の中央付近が泥濘となっている為路外へと回避する

この足元には排水を考慮した砂利の層があり、凹凸を均す為の土の層、その上にバラスを撒く複数層の路盤を持っているはずで、馬車が立ち往生するような軟な造りじゃない。こいつは単なる明治道ではない。明治・大正・戦前・戦後を通じて渡島半島を横断する唯一無二の車道として供用された要路である。

竣成すると同時に公共交通機関を成立させる重大な使命を負っていたから、ただ単に道幅が広ければ良いというものではなかった。国縫駅で函館本線との乗り継ぎがある為、動物相手で時間が読めないという点は差し引いても、道路事情による遅延は許されない。だからこそ道庁に救いを求めたのだ。

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◆ヌタ場を過ぎると再び路面は乾いた状態で安定する

道中で馬が糞尿を垂らすとか水を飲むとか野獣の臭いに怯えて足が竦む等の自然現象以外の遅延リスクは可能な限り排除しておきたい。鉄道が通じていない地域にとって道路とは生命線であり、巡航速度こそ比べ物にならないが貨客を運搬する馬車は鉄道そのものなのだ。

枕木とレールによる堅牢な路盤を敷くかの如し利別山道は強固な路盤を持っている。路線切替から既に半世紀超を経ているが、今だこうしてL字の線形がほぼ完璧な状態で残っている点を踏まえれば、第二期利別山道は鉄道を敷設するくらいの情熱を持って開削されたであろう事は想像に難くない。

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◆谷筋の暗渠も破壊を免れ一車線幅を維持する

明治43年に瀬棚と国縫を結ぶ馬車が疾走するが、二つの難所を跨ぐ直通の馬車は無く、乗客は花石及び今金で乗り継ぐリレー形式となっていた。それはぶっ通しだと馬がバテてしまうという理由もあろうが、他にそうせざるを得ない悩ましい事情があった。それが激しい客争奪戦の末の宿屋同士の対立である。

国縫駅で瀬棚方面に帰るお客さんを一人でも多く乗せるため、乗客には手拭いなどサービスをしたり、あの手この手を使って客取り競争をした。この客取り競争は単なる駅前だけではなく、宿屋の対立にまで発展する。

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◆浅藪になるも路肩が崩れ去り全幅の信頼は置けない

この手のサービス合戦はよく聞く話で、どこの船着場や駅前でも起こる自然現象である。最終的には赤字覚悟の大幅値引き、所謂ダンピングでライバルをねじ伏せるまで続く不毛な戦いは、何も昔の企業に限った事ではない。

乗合馬車の経営は当初宿屋がしており客はそのまま宿に宿泊するという具合で、乗合馬車があるかないかが宿屋の収入に大きく影響したので、大変な熱の入れようであった。

黎明期の乗合馬車は宿屋が母体

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◆路肩も法面も崩れ元々の斜面と山道が同化しつつある

単に移動手段として運賃を払って便乗する客もいたであろうが、多くの客は宿屋に直行しそのまま宿泊するというスタイルであった。それは今日の送迎バスに似ている。路線バスが未設定の秘境宿の送迎バスが路線バスを兼務するイメージだ。

宿泊者は運賃をダダ同然にして少々高めの宿泊料で回収し、移動目的の乗客からは正規の運賃を頂戴する。そうすれば空席リスクは最小限に抑えられる。明治の横断馬車は定期馬車と謳ってはいるものの、送迎馬車の域を出るものではなかった。

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