教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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花石峠(14)

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花石峠(はないしとうげ)の取扱説明書

花石と聞いてすぐに北海道は道南の今金町のあの花石か!と思い浮かぶとしたら、余程の北海道通か当地生え抜きの人間に限られる。しかも花石峠の存在自体を認識しているとなると、もうその時点で廃道コンシェルジュを名乗ってもいい。何せ廃道仙人掘淳一氏率いるコンターサークルSが徒歩による縦走にも拘らず断念せざるを得なかった重鎮御墨付の強烈廃道である。廃道スナイパーの狙撃対象としては申し分ない格好の題材だ。現状を想像するだけでも武者震いするが、ターゲットは美利河峠の終点である花石郵便局から目と鼻の先に位置する。美利河峠の今昔を白日の下に晒した今、返す刀で花石峠を攻略しない手はない。美利河と花石の二部構成による後編の作戦名は、下町ロケットガウディ編に便乗しアウディ計画とする。アウディR8でどこまで突っ込めるのか?その辺も見極めつつ全貌を解明すべく侵攻を開始する。

 

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◆大草原を駆け抜ける明治43年竣工の馬車道

今から遡る事百年以上も前の日常は、当山道を多くの馬車が行き交っていた。瀬棚からは海産物等の海の幸や日用雑貨が、花石からは農産物に薪炭といった山の恵みが大量に運び込まれ、流通量は激増の一途を辿った。馬車の巡航速度は自転車にも劣るが、安定して大量の物資を移動出来る利点がある。

昭和3年春の時点で国縫駅止めで到着した自転車を受け取る為に、馬車で丹波から国縫へ赴いた村人が片道に丸一日を要したとの記録がある。そのエピソードは鉄道開通前夜まで渡島半島横断線を走破する唯一の乗り物が馬車であった事を窺わせる。その事実は官民及び法人個人を問わない。

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◆馬車道を象徴する曲率半径10m弱のヘアピンカーブ

見てくれ、この極限に近いヘアピンカーブを。曲率半径が10mを切る反転箇所こそ馬車道の馬車道たる所以で、この急カーブがハードルのひとつであったのは間違いない。見通しの利く今でも対向車がいたらドキッとするが、現場が樹海の真只中にあった時代は、馬車同士がここで対峙した日には目も当てられない。

明治43年に瀬棚と国縫を結ぶ乗合馬車が疾走するが、その背後には何十何百という今日の軽トラに値する一般の荷馬車が控えており、また貨物輸送に特化した専業の馬車は海産物・農産物・畜産物・鉱物と多岐に渡り、第二期利別山道はそれらが入り乱れてのカオス状態にあったものと推察される。

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◆路面には鮮明な大型車のタイヤ痕が認められる

現場はひっそりと静まり返り風の音だけが響き渡るが、当時の様子は今とは全く異なり喧騒に満ちていたに違いない。どちらからともなく絶えず馬車がやってくる幹線路は、歩行者にとっては歩き難い事この上ない。馬車曳きにとって山道をテクテクと歩く者は、単なる邪魔者でしかないのだ。

交通弱者優先という考えは毛頭無く、そこ退けそこ退けお馬が通るの勢いで、パカパカと鳴り響く蹄鉄の音でも退かないものなら、熊避け用に携行しているラッパをクラクション代わりに吹いたであろう事は容易に想像が付く。僕だったら鼻から喧騒且つ危険な大通りを避け従来の山道を辿る。

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◆何年か前の木材切り出しで息を吹き返した馬車道

前から後ろからいつ何時現れるやも知れぬ馬車に怯えながら歩くだなんて真っ平御免だ。ダンコ馬の隊列という風物詩がなくなった第一期利別山道は、依然として徒歩移動が主体の般ピーには持って来いの経路で、無駄に距離を稼ぐ馬車道に対してのショートカットの意味もある。

従って珍古辺新道が開通した後も自らの足で渡島半島を横断する人々は、明治25年に敷設された旧道を伝っていたと思われる。第一期利別山道は第二期山道の竣成と同時に荒廃したのではなく、恐らくその後も長きに亘り供用された。でなければ昭和42年の市販の地図にその軌跡が示されるはずがない。

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◆日陰に入ると急激に足元の様子が判然としなくなる

国土地理院の地形図で第一期利別山道が確認出来るのは昭和44年版が最後で、その時点で初代の山道は点線扱いとなっている。同47年版では初代の山道筋が影も形も無い事から、藪に没し道筋を辿る事さえ困難という状況が目に浮かぶ。だとすればそれ以前は辛うじて使われていたと考えるのが自然だ。

民間人が伝っているシーンは想像し辛いが、林業関係者や地権者等が恒常的に刈り払いをするなどして存続させていた可能性はある。事実昭和20年版の地形図上では初代珍古辺峠が実線にて描かれている。それは測量隊が完踏出来た事に他ならない。終戦の時点で第一期利別山道はまだ生きていたのだ。

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◆植物群が猛烈な勢いで馬車道を呑み込もうとしている

考えてもみて欲しい。昭和20年は先の大戦が終った直後の何もかも失ったズタボロ状態である。地方の山村では依然として徒歩移動が主体であり、その頃の日本はまだ長距離移動は徒歩が当然と思っている人が少なくなかった。特に復興が遅れている過疎地ではその傾向が顕著であったのは言うまでもない。

昭和32年版の地形図では初代利別山道が点線扱いとなり、同時に後志利別川に沿い奥沢を経由する迂回路が成立している。それは峠越えからリバーサイドへの覇権の移行を意味し、普通ならそれを以て人々の流れは新道へ切り替わったと解釈する。しかし僕は経験上そうは思わない。

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◆斜面か道か判然としない最中で遂に行き場を失う

住吉から奥沢・中里と経て花石へ至る新道の道程は果てしなく遠い。人々にとってマイカーはまだ高嶺の花で、自転車移動が精々であった時代背景からして、徒歩及び自転車組は昭和30年代に入っても尚珍古辺峠を越えていた可能性が大だ。

事実昭和32年の地形図で馬車道は二重線こそ描かれなかったものの依然として実線を保っており、それは単に覇権を後進に譲ったに過ぎず、徒歩・自転車組のショートカットとして第二期利別山道は東京五輪後も生き永らえていたと僕は睨んでいる。

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