教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

トップ>廃道>北海道>花石峠

花石峠(12)

★★★★★

花石峠(はないしとうげ)の取扱説明書

花石と聞いてすぐに北海道は道南の今金町のあの花石か!と思い浮かぶとしたら、余程の北海道通か当地生え抜きの人間に限られる。しかも花石峠の存在自体を認識しているとなると、もうその時点で廃道コンシェルジュを名乗ってもいい。何せ廃道仙人掘淳一氏率いるコンターサークルSが徒歩による縦走にも拘らず断念せざるを得なかった重鎮御墨付の強烈廃道である。廃道スナイパーの狙撃対象としては申し分ない格好の題材だ。現状を想像するだけでも武者震いするが、ターゲットは美利河峠の終点である花石郵便局から目と鼻の先に位置する。美利河峠の今昔を白日の下に晒した今、返す刀で花石峠を攻略しない手はない。美利河と花石の二部構成による後編の作戦名は、下町ロケットガウディ編に便乗しアウディ計画とする。アウディR8でどこまで突っ込めるのか?その辺も見極めつつ全貌を解明すべく侵攻を開始する。

 

DSC05235.jpg

◆いつの間にか足元の様子が怪しさ満点となっている

美利河までは道路があるが、金山峠から北住吉間は道路とてなく、雑草や笹を踏み分けてつけた足跡の道を通るのでその難儀なこと、互いに励ましあって谷を渡り峠を越え、その日の夕方北住吉の小川のほとりにたどり着いた。

明治26年4月末に入植した柴田右衛門氏一行は、まだ開削途上にあった第一期利別山道を縦貫している。金山峠とは珍古辺峠の事を指しており、当時珍古辺周辺では個々人による小規模の砂金採取が盛んであった事から、地形図上に珍古辺峠と刷られる以前は恐らく金山峠で通じていたのだろう。

DSC05237.jpg

◆不鮮明なダブルトラックが認められるが過信は禁物

明治26年4月現在に於ける利別山道の敷設進捗状況は、瀬棚⇔種川、美利河⇔国縫が日の目を見ているのに対し、花石前後の道路が不成立となっている。特に珍古辺峠の西側が未整備につき、泣き出す者も出る筆舌に尽くし難い悪路であったと柴田氏は強調している。

谷向かいの斜面に捉えた横這いの路がまさにそれで、柴田氏一行が渡島半島横断線が踏分道から刈分道へと進化する過程の真只中を垣間見たという点で氏の証言は貴重だ。衣替えした山道がすっかり板に付いた明治32年に縦走した鈴木勝五郎氏は、駄馬の背に揺られ珍古辺峠を越している。

DSC07555.jpg

◆北大北方資料室所蔵の古写真「和種馬の駄送」

鈴木氏の証言に「馬でも相当ぬかる」とか「駄馬がやっとの狭き道」という文言があるにはあるが、柴田氏のような壮絶さや悲壮感は全く伝わって来ない。そいつを額面通り受け取れば、明治20年代末には駄付馬による貨客輸送、即ち駄送が確立され前時代の不安は取り除かれた感がある。

ここに一枚の古写真がある。北大北方資料室所蔵の写真には、「和種馬の駄送」とのタイトルが冠されている。背景からして撮影現場が山岳地帯である事は疑う余地がなく、どこかの峠を駄付馬の行列が越えるシーンを、向かいの斜面、或いは襞を回り込む同一路線から捉えたショットと見て間違いない。

DSC05236.jpg

◆路面には砂利が撒かれた形跡が認められる

それはパッと見の道幅が1m有るか無いかといった小路で、現代人の感覚では道路とは言い難き小径である。しかし当時はこれでも至極真っ当な路と言えたのだ。腹まで浸かる、或いは底無し沼の餌食となるような劣悪な環境下では、普通に前進可能な事自体が優良コースの証であった。

幅員や勾配や付帯設備等々は二の次で、兎にも角にも不自由なく行き来出来る通路の敷設が最優先課題であった。その為利別山道は明治年間に二度に及ぶ大規模な改良工事が成され、明治43年という遅咲きながら渡島半島を横断する乗合馬車を疾走させる事に成功している。

DSC05240.jpg

◆四輪が通っているようないないような微妙な感じの山道

それが足掛かりとなって瀬棚線の敷設に繋がり、今日の渡島半島横断道路の敷設の礎となっている事に異論の余地はない。和種馬の駄送に見る山岳道路は、登山道に毛が生えた程度の山道にしか映らないが、これがいかに画期的な改変であったかを町史が雄弁に語る。

ダンコ馬が十頭位までも連ね、瀬棚からは米・黒砂糖・その他日用雑貨が多かった。運搬の単位は一駄・米二俵・黒砂糖一樽・うどん四箱であった。今金では定期駅逓を「ダンコ馬」といい、駅逓には専業の業者がいた。

DSC05241.jpg

◆猛烈な勢いで植物の群生が道跡を覆い隠そうとしている

ダンコ馬による定期駅逓制

瀬棚と国縫を結ぶ横断道路には二箇所の駅逓が設けられ、半島を横断する者達への便宜が図られた。取扱人大島字太郎のチブタイウシナイ駅逓所、取扱人東條九郎太の珍古辺駅逓所がそれで、共に明治27年2月24日に営業を始めている。

明治32年に入植した鈴木氏は珍古辺駅逓とチブタイウシナイ駅逓の二箇所で馬を乗り換え、八束地区へとはるばるやって来ている。その事から駅逓でダンコマを乗り継ぐ継立制度が明治20年代後半の時点で既に確立されている様子が窺える。

DSC05242.jpg

◆峠以降は使われていないと遅ればせながら気付く

渡島半島横断線上にある二つの駅逓所の開設時期は、第一期利別山道が竣工する明治26年度末に重なり、明治30年代にはダンコマを乗り継ぐシステマチックな貨客輸送がすっかり板に付いていた事を、鈴木氏の回想録は如実に物語る。

珍古辺峠の頂上付近で僕の視界から消え去り一足先に北住吉へと向かう路線、あれは明治25年まで女・子供が泣き叫ぶ阿鼻叫喚線にして、翌年以降ダンコマによるリレー輸送が確立された最古の横断道路に違いないと僕は確信している。

花石峠13へ進む

花石峠11へ戻る

トップ>花石峠に関するエピソードやご意見ご感想などありましたら一言どうぞ>元号一覧