|
教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
|
|
トップ>廃道>北海道>花石峠 |
|
|
花石峠(5) ★★★★★ |
|
|
花石峠(はないしとうげ)の取扱説明書 花石と聞いてすぐに北海道は道南の今金町のあの花石か!と思い浮かぶとしたら、余程の北海道通か当地生え抜きの人間に限られる。しかも花石峠の存在自体を認識しているとなると、もうその時点で廃道コンシェルジュを名乗ってもいい。何せ廃道仙人掘淳一氏率いるコンターサークルSが徒歩による縦走にも拘らず断念せざるを得なかった重鎮御墨付の強烈廃道である。廃道スナイパーの狙撃対象としては申し分ない格好の題材だ。現状を想像するだけでも武者震いするが、ターゲットは美利河峠の終点である花石郵便局から目と鼻の先に位置する。美利河峠の今昔を白日の下に晒した今、返す刀で花石峠を攻略しない手はない。美利河と花石の二部構成による後編の作戦名は、下町ロケットガウディ編に便乗しアウディ計画とする。アウディR8でどこまで突っ込めるのか?その辺も見極めつつ全貌を解明すべく侵攻を開始する。 |
|
|
|
◆昭和4年頃の後志利別川を連絡する美利河の渡船 渡船に使っていた船の大きさは六尺の二四尺と三尺の二四尺の二隻でワイヤーを川の向こうに張ってそれをたぐって進んだが、比較的大きな川船だったので人間の外に馬も運んだ。渡船賃は一人三銭、馬十銭、自転車五銭だった。 後志利別川流域に於ける渡船交通史は、明治26年の利別山道全通時に端を発するのだと町史は語る。当時はダンコ馬が長距離移動の主力機関であったから、川船に馬を同乗させる必要があった。その為川舟にしては割と大き目のサイズの艇が用意されたのだという。 |
|
|
◆旧国道筋には急カーブが皆無に等しく総じて走り易い 渡船場は官設、町営、私設のものとに分かれていた。本道では開拓として入地したから、そこを流れる無数の河川に橋梁を設けることは全くの新規事業であるため、村財政にとっては至難なことで渡船場制をとらざるを得なかった。 今金町がまだ利別村を名乗っていた頃の開拓期は、一応村を名乗り自治体の体は成しているものの、その実態は集団入植した部落の寄せ集めに過ぎず、財政難の折橋梁を架ける余裕などまるで無かった。そこで当座を凌ぐべく登場したのが渡し船で、渡船場制は財政的に厳しい村の苦肉の策であったのだ。 |
|
|
◆旧国道筋には結構な数のおにぎりが認められる 渡船場は役場から委託なので月三十円をもらって、渡船賃と給料はこちらの収入になった。私の家より大分後になって、鷲野さんで住吉への連絡のため個人渡船を開いた。またサックルベツの大宮という人がやはり個人で渡船を開いた。 中島氏は自身の他にも近隣で複数の者が個人渡船を経営していた事実を明かしている。現在永久橋として成立する多くの橋梁群が、黎明期の渡船が置き換わったものである事が氏の手記から読み取れる。後志利別川の本流支流を問わずどこもかしこも渡船は必至であったのだ。 |
|
|
◆中里小学校付近のみ通学路名目で歩道が備わる しかしいつまでも渡船という訳にはいかない。馬車そして来る自動車時代を迎えるにあたり、橋梁の架設は避けて通れない。橋を架けずして村の発展は望めないし、河川と対峙する度に乗換というのは面倒な上に有料ときているから、移動者にとっては不便この上ない。そこに風穴を開けたのが花石橋だ。 町史は花石橋が大正6年に架け替えられたのだと訴える。現存する石組の土台は先代のものである可能性が大だ。それ以前は木製の吊橋であったと結論付けている。また明治43年には珍古辺渡船場が廃止されているとも。花石橋の遍歴を時系列でみると以下のようになる。 |
|
|
◆人がまともに歩く余白のないかつかつの二車線路 明治26年珍古辺渡船場開設 明治43年初代珍古辺橋架設 大正6年二代目珍古辺橋架設 昭和34年三代目花石橋架設 明治43年といえば瀬棚⇔国縫間に乗合馬車が疾走した年である。道路付帯設備と馬車交通の関係は表裏一体であるから、珍古辺橋の成立によって馬車移動が可能になったのは間違いない。また逆説的に馬車を走らせる為に珍古辺橋の架橋は不可避であり急務であったという見方も出来る。 |
|
|
◆函館バスの停留所がポツリと佇む住中橋の袂 花石バイパスと旧国道の交点たる北住吉と花石の間には、住吉橋・住中橋・花石橋の三本の橋が後志利別川を跨いでいる。当然の如しその前身は渡船であり、町史はそれらの橋にも言及しているが、詳細な架設時期は不明としている。年代不詳とはいえそれらが明治末期の架設でないと整合性が取れない。 何せ明治43年には渡島半島を乗合馬車が横断しているから、その頃には後志利別川に沿う旧国道筋の原形が出来上がっていないとお話にならない。従って住吉橋及び住中橋は明治末の架設と捉えるのが妥当だ。だが町史は昭和10年代初頭の住吉橋は木橋で、住中橋はそれ以前の架設に留めている。 |
|
|
◆現在は新旧国道の交点となっている北住吉駅前のT字路 何故町史は住吉橋と住中橋は共に明治末の架設と言い切れないのだろうか?花石橋と同期でないと辻褄が合わないのに、どうして三橋が同期と結論付けないのだろうか?そこには僕等の知らない隠し子ならぬ隠れ道絡みの大人の事情があった。 後志利別川に沿って無駄に距離を稼ぐ旧国道筋であるが、その道筋は明治の最晩期に初めて渡島半島を横断する公共交通機関が疾走した既定路線ではない。この衝撃的事実を現地に於いても消化出来ずにいる自分がいた。 花石峠6へ進む 花石峠4へ戻る |