教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

トップ>廃道>北海道>花石峠

花石峠(4)

★★★★★

花石峠(はないしとうげ)の取扱説明書

花石と聞いてすぐに北海道は道南の今金町のあの花石か!と思い浮かぶとしたら、余程の北海道通か当地生え抜きの人間に限られる。しかも花石峠の存在自体を認識しているとなると、もうその時点で廃道コンシェルジュを名乗ってもいい。何せ廃道仙人掘淳一氏率いるコンターサークルSが徒歩による縦走にも拘らず断念せざるを得なかった重鎮御墨付の強烈廃道である。廃道スナイパーの狙撃対象としては申し分ない格好の題材だ。現状を想像するだけでも武者震いするが、ターゲットは美利河峠の終点である花石郵便局から目と鼻の先に位置する。美利河峠の今昔を白日の下に晒した今、返す刀で花石峠を攻略しない手はない。美利河と花石の二部構成による後編の作戦名は、下町ロケットガウディ編に便乗しアウディ計画とする。アウディR8でどこまで突っ込めるのか?その辺も見極めつつ全貌を解明すべく侵攻を開始する。

 

DSC05703.jpg

◆石組の重厚な造りの花石橋の土台を望遠で捉える

花石地区内に架かる小金橋や宮島地区と花石地区を隔てる瑪瑙橋にも旧道らしき道筋が川岸に認められるが、それ等は決定的な遺構に欠ける不鮮明なものに過ぎない。その他大勢が旧道の片鱗を薄らと残しているのに対し、花石橋のそれは重厚な石組の土台が凛として構えている。

鉄道の経路を把握していない時分であれば、国道と並走する瀬棚線の遺構と勘違いしてしまうほど完成度の高い土台で、花石峠を経由する鉄路と後志利別川に沿う国道の乖離具合を把握すれば、自ずと花石橋に隣接する石組の遺構が一時代前の道路橋梁の一部である事に気付く。

3無題.png

◆大正6年現在の地図で釣橋と刷られている花石橋

幅員は大型車一台の通行がやっとの狭さで、橋上で車両同士の交換が出来ない旧式であったのは想像に難くない。銘板には竣工が昭和34年とあるから、それ以前に使われていた旧橋の遺構であるのは間違いない。その橋は吊り橋であったと推察される。何故なら旧版地形図に釣橋とあるからだ。

旧花石橋=吊橋

美利河峠以降花石地区の外れまで一貫して後志利別川の左岸を進行する山道は、中里地区との境界を隔てる場面で初めて大河とまともに対峙する。

DSC05706.jpg

◆旧道となって久しい大迂回路に点々と佇むおにぎり

美利河⇔三四郎間の廃道内で川渡りを三度も経験したように、利別山道を直に横切る河川は少なくないが、そのいずれもが道路を不通に追い込むほどの脅威とはならない。短橋梁や暗渠等の大掛かりな対策を取らずに、路上を直に山水が流れているのがその証左だ。

水量豊富な雪解け水やゲリラ豪雨や台風時の鉄砲水でも、捌けてしまう程度の弱小河川が横切っているに過ぎない。だが中里と花石の境界だけは別だ。地図上に0.7と記されているように、その他大勢とは規模が異なる。0.7とは70mを意味する。高が70m、されど70mである。

DSC05707.jpg

◆広大な農地を二分する歩道無しの二車線の快走路

考えてもみて欲しい。北の大地の冬の寒空の下で、水温零度に迫る大河の川渡りを強いられた際、川幅が5m10mであれば飛び石の飛越で濡れずに済むかも知れないが、70mという距離は気が遠くなるほどの果てしない距離だ。勿論深みに嵌まったら全身ズブ濡れは免れない。

松浦武四郎は三四郎での川舟の乗り降りの際に、持参道具の何もかもが川に放り出されるような不安定な状況下で、辛うじて身だけは濡れずに済んだと窮状を告白している。前日までの天候や当日の気象条件にもよるが、後志利別川を渡るのは生半可な状況ではないという事だけは確かだ。

DSC05710.jpg

◆旧道上の路線バスの停留所には待合室が見当たらない

旧橋の現役時代は今金市街地から美利河峠に至る過程で最大にして最強の川渡りが花石橋であり、そこでの対応如何が生死をも左右すると言っても過言ではなく、架橋に対する沿線住民の想いは並々ならぬものがあったであろう事は容易に想像が付く。中島末広氏は訴える。その昔は川舟が必至であったと。

明治40年頃、家のすぐ前にある川に渡船場が開かれた。国縫・瀬棚の連絡渡船場で村営の委託であった。中里から瀬棚にいくには必ずここを通り三分間位乗り川船を降りると南岸道路に続く道があった。

DSC05708.jpg

◆いつ何時熊が出てきても不思議でない樹海を貫く

瀬棚線跡を踏襲する地域高規格道路花石新道が成立する以前の国道は、最南端の奥沢地区へ向けベロンと舌を垂らしたかの如し大迂回路となっていて、平成に入っても尚無駄に距離を稼ぐ理不尽な状況が続いていた。平成12年の花石道路の成立で大周りは解消されたが、それ以前は更に過酷であった。

どこへ行くにも川渡りがネックとなり、まともな渡し船が営業を始めたのは明治末期であると中島氏は語る。それ以前の入植の際はその都度川舟を所有するアイヌや先住民の力を借りるより他なく、伝手を介しての交渉などいちいち気を遣わねばならない時代は、どこへ移動するにも何かと面倒であった。

DSC05711.jpg

◆新道開通後は地元車両しか行き来せず閑散としている

新旧国道が交わる北住吉と花石の間には、後志利別川を跨ぐ大橋が三つある。瀬棚方面より住吉橋・住中橋・花石橋と続く三橋は、氾濫を想定した質実剛健な造りで、永久橋と呼んでも差し支えない出来にある。

百年に一度有るか無いかの氾濫にも耐え得る強固な橋梁群であるが、その前身はいずれもが渡し船という渡船交通に端を発している。武四郎一行が川舟を利して遡上している事実から、川舟が当地の主力輸送機関であったのは疑う余地がない。

花石峠5へ進む

花石峠3へ戻る

トップ>花石峠に関するエピソードやご意見ご感想などありましたら一言どうぞ>元号一覧