教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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花石峠(3)

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花石峠(はないしとうげ)の取扱説明書

花石と聞いてすぐに北海道は道南の今金町のあの花石か!と思い浮かぶとしたら、余程の北海道通か当地生え抜きの人間に限られる。しかも花石峠の存在自体を認識しているとなると、もうその時点で廃道コンシェルジュを名乗ってもいい。何せ廃道仙人掘淳一氏率いるコンターサークルSが徒歩による縦走にも拘らず断念せざるを得なかった重鎮御墨付の強烈廃道である。廃道スナイパーの狙撃対象としては申し分ない格好の題材だ。現状を想像するだけでも武者震いするが、ターゲットは美利河峠の終点である花石郵便局から目と鼻の先に位置する。美利河峠の今昔を白日の下に晒した今、返す刀で花石峠を攻略しない手はない。美利河と花石の二部構成による後編の作戦名は、下町ロケットガウディ編に便乗しアウディ計画とする。アウディR8でどこまで突っ込めるのか?その辺も見極めつつ全貌を解明すべく侵攻を開始する。

 

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◆花石小学校付近は花石駅前以上に人家が密集する

冬期はラッセル通学が珍しくなかったという花石の婆ちゃんは、花石駅をパスする片道約5kmの道程を日課としており、その御蔭で今も足腰が丈夫だと自慢気に語る。ショートカットという程のものでもないが、三四郎へ通じる道は利別山道以外にもう一本あり、その経路は旧版地形図にも描かれている。

一時代前の花石郵便局から北進し後志利別川を跨がずに瑪瑙橋の手前を右に折れる一条の線がそれだ。古来一度も二重線で描かれた試しのないその経路は、人畜のみが有効の登山道に等しい小径と思われる。その道は昭和44年の地形図を最後に抹消されて以来一度も息を吹き返してはいない。

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◆平成19年度を以て歴史の幕を閉じた花石小学校

戦前戦中戦後を通じて三四郎地区に住まう子供達の通学路として利用された小径は、恐らくというか十中八九藪底に没しており、道跡を辿るのはほぼ不可能な状況にある。冬期は道跡が鮮明な利別山道を利用したというから、小径は雪の無い時期の日中の利用に限られる限定的なものであったと推察される。

その小径はまだ道らしい道も無い時代に、松浦武四郎の一行が三四郎から花石へと抜けた道筋である可能性がある。ただ雲散霧消となった今ではそれを解明する手立てはない。利別山道そのものも一時は利用する者が無く、荒れるに任せた山道は通行不能状態にあったという。

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◆昭和53年10月竣工の小金橋

花石貯水場まではメンテされていたようだが、それ以上先は現在の美利河⇔三四郎間同様藪に没していたのだろう。志文内花石林道の開設に伴い花石⇔三四郎間が蘇り、故郷を久しく訪れたという花石の婆ちゃんは、三四郎時代の様子を懐かしそうに回想する。

婆ちゃんが18歳の時に一家は三四郎を離れ花石へ移り住んでいるが、その時点ではまだ電気が通じていなかったという。越してきて2,3年後に花石にも電化の波が押し寄せたというから、昭和30年頃になってようやく電気の恩恵に授かれた事になる。昭和20年代の花石は戦前と何等変わらぬ状況にあったのだ。

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◆花石道路が成立するも国道標識は外されていない

正確を期せば昭和20年代の我が国は、戦前よりももっと過酷な状態にあった。何せ日本は戦後間もなくハイパーインフレを経験し、当時のお札は紙屑同然と化しているから、タンス預金を含めた個人の預貯金は完全に吹っ飛んでいる。今もそうだが外貨建てで預貯金している日本人はほとんどいない。

キャッシュが意味を成さない世界では現物が物を言う。花石の婆ちゃんは薪と炭で生計を立てていたというから、ほぼ無尽蔵に等しい燃料があった御蔭で、野菜や米などと等価交換出来たのが大きい。明日どうなるかも分からない混沌とした非常時では、都市部に比し食料の供給源たる田舎は圧倒的に強い。

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◆花石地区と中里地区を隔てる花石橋

田舎では農家ならずとも家族が食べていける家庭菜園は当たり前で、近所に配るほど必要以上に作るのが常であるから、有事の際には普段の付き合いを通じて融通が利く。しかも花石の婆ちゃんは無尽蔵のエネルギー源を保有していたから、食うや食わずの都会人に比し恵まれた環境という見方が出来なくもない。

但しそれと引き換えにどこへ行くにも不便という制約がある。花石の婆ちゃんはやや奥まった三四郎地区で生まれ育っているが、最寄駅まで3km弱と短く、イオンまで50kmという看板が平然と掲げられている地区に比すれば恵まれている。またもう少し早く産まれていれば更なる好環境であったのは間違いない。

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◆昭和34年3月20日竣工と刷られる花石橋の銘板

何故なら三四郎経由で乗合馬車が行き来していたからだ。鉄道の開業によって戦力外通告を言い渡されたが、それ以前は瀬棚と国縫を結ぶ唯一無二の公共交通機関として乗合馬車は欠かす事の出来ない沿線住民の足となっていた。明治年間に営業を開始している功績は称えられて然るべき偉業である。

明治25年現在ではまだ道らしい道も無く、同26年に全通を果たした山道ですら人畜のみ通行を許す刈分道であったものが、大正時代を待たずして乗合馬車を疾走させたのだから大したものだ。刈分道を付けるのにも膨大な時間とエネルギーを要するが、馬車道の敷設は刈分道のそれを遥かに上回る。

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◆花石橋の中里側に旧橋の土台らしき遺構を捉える

一定の空間を設ければよい踏分道や刈分道と異なり、馬車道は路盤の造成を要するから次元が異なる。札幌とも函館とも直接的な結び付きがない僻地で、明治の最晩期に馬車道規格で横断道路を成立させた事実は驚愕に値する。

花石の婆ちゃんはそんな驚きの事実を知らずにいる。産まれてくる時代を一歩間違えば、自宅から乗合馬車に飛び乗れたかも知れないのである。花石橋にはその時代に使われていたであろう旧橋の土台が今も残る。

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