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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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花石峠(2) ★★★★★ |
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花石峠(はないしとうげ)の取扱説明書 花石と聞いてすぐに北海道は道南の今金町のあの花石か!と思い浮かぶとしたら、余程の北海道通か当地生え抜きの人間に限られる。しかも花石峠の存在自体を認識しているとなると、もうその時点で廃道コンシェルジュを名乗ってもいい。何せ廃道仙人掘淳一氏率いるコンターサークルSが徒歩による縦走にも拘らず断念せざるを得なかった重鎮御墨付の強烈廃道である。廃道スナイパーの狙撃対象としては申し分ない格好の題材だ。現状を想像するだけでも武者震いするが、ターゲットは美利河峠の終点である花石郵便局から目と鼻の先に位置する。美利河峠の今昔を白日の下に晒した今、返す刀で花石峠を攻略しない手はない。美利河と花石の二部構成による後編の作戦名は、下町ロケットガウディ編に便乗しアウディ計画とする。アウディR8でどこまで突っ込めるのか?その辺も見極めつつ全貌を解明すべく侵攻を開始する。 |
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◆平成27年現在の花石界隈の路の遍歴図 利別山道完全攻略計画、通称アウディ計画を遂行するにあたり、前編美利河峠編(馬鉄VS乗合馬車)の復習も兼ね、複雑な路の遍歴を持つ花石界隈の状況を、今一度きちんと押さえておきたい。この図説を以てしてもついて来られない方は、今流行りのチン切りの刑に処されるので十分御注意下さい。尚以下は松平定知氏のナレーションによる脳内再生でお楽しみ下さい。 前回までの粗筋 安政4年、背丈以上もある藪を掻き分け、後志利別川沿いを西進する者達がいた。北海道の名付け親にして北の大地の全貌を世に知らしめた松浦武四郎その人である。 |
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◆昭和44年現在の花石界隈の路の遍歴図 往路は徒歩で復路は舟で渡島半島の東西を踏破した武四郎は、横断道路を通せばその効果は絶大也と幕府に進言する。しかし肝心の幕府は新政府軍に白旗を挙げ、利別原野と後志利別川流域の開拓は一旦棚上げとなる。ようやくこの地が脚光を浴びたのは明治25年の事である。 後に内閣総理大臣へと上り詰める犬養毅の息のかかる者達が集団入植し、横断道路の必要性を強く訴えると直ちに山道の開削事業が執り行われ、工事は瀬棚と国縫の双方から進められた。しかし美利河峠と花石峠の難コースを含む山岳工区の開削は、翌年に持ち越しとなる。 |
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◆昭和32年現在の花石界隈の路の遍歴図 努力の甲斐あって明治26年渡島半島横断線は日の目を見る。しかしその実態は馬一頭、人一人の通行がやっとの江戸時代と何等変わらぬ旧態依然とした路であった。未だ馬車の通行を許さぬ利別山道であったが、それでも人々は未開の大地を目指して海を渡り峠を越えた。 明治27年には郵便路線が開設し、ピストルを携行した配達夫が山道を行き来するようになり、同29年には美利河⇔国縫間限定で鉱山軌道が営業を開始し、利別山道は新たな時代を迎える。その頃鉱山の実質的支配者たるハウル商会のT.Aウイルソンは、馬鉄旅客輸送を画策していた。 |
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◆北住吉⇔花石間の新旧国道の相関関係図 当時の山道は駅逓のダンコ馬を乗り継いでの長旅で、渡島半島の横断は筆舌に尽くし難い過酷なものであった。それを目の当たりにしたウイルソンは、自前の馬鉄に乗じた貨客混載の一挙両得を目論んでいた。明治35年にはレールを木製から鉄製に改め、軌道幅も12ポンドへと拡張する。 しかし駅逓の置かれていない美利河峠での乗り継ぎは問題アリとされ、なかなか許可が下りない。そうこうしているうちにマンガンの採掘量も減産に転じ、明治43年には美利河峠を越える乗合馬車が疾走する。大正5年には軌道が撤去され、鉱石の搬出は馬車輸送へと切り替わった。 |
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◆花石のK字状の交点付近より瀬棚方面を望む こうしてウイルソンの馬鉄による貨客混載輸送は幻と化す。しかしウイルソンが目指した軌道による旅客運輸は全く別の形で実現する。昭和4年の暮れ、鉄の鎧を身に纏った黒い化け物が現れる。周囲の低山に轟く陸蒸気の警笛が、渡島半島横断線に近代化の夜明けを告げるのである。 美利河峠の終点にして花石峠の起点となるK字状の交点は、一見すると訳の分からない複雑怪奇な線形であるが、現在の地図と旧版地形図を見比べればその経緯は一目瞭然で、瀬棚線跡を踏襲する新国道と一世代前の国道が最接近する花石駅跡地の改変が、難易度のハードルを思いっきり引き上げている。 |
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◆花石市街地を外れた途端に路は下りへと転じる 花石の婆ちゃんが言っていた通り、今と昔では郵便局の位置が若干異なる。旧道と旧旧道の交点にある郵便局は、国縫寄りにあったものを後年移転してきたのが分かる。停車場の設置や幹線道路の切り替え時に花石の中心部は大きく変わっているが、ずっと変わらないものがある。それが花石小学校だ。 幼き日の花石の婆ちゃんは、花石から利別山道を少々入り込んだ三四郎と花石小学校との間を毎日往復していた。大雪の日は朝家を出てラッセル登校するも、昼頃にようやく学校に着き、昼飯を食べると直ちに学校を出て、ラッセル下校するも日暮れ間際に帰宅するという珍事が度々あったというから驚きだ。 |
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◆今も路線バスが旧道経由である証拠の停留所 今みたいにスクールバスなんて無かったしね、みんな歩くしかないっしょ。学校行って授業も受けずにそのまま帰ってくるんだからね。全く馬鹿みたいな話だよね、ハハハッ! 18歳まで三四郎で暮らした花石の婆ちゃんは、冬になるとラッセル通学していた小学生の時分に戦争を迎えている。その頃は三四郎を経由する利別山道が主役を担っていたが、時折トラックが行き来する程度でバスは走っていなかったという。 花石峠3へ進む 花石峠1へ戻る |