教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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美利河峠(25)

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美利河峠(ぴりかとうげ)の取扱説明書

ニセコ・ルスツ・トマム・・・北海道に於ける片仮名の三文字表記地名は?3秒前、2、1、Q!と行き交う者にいきなり投げかけると、必ずと言っていいほど返ってくるのがメジャースキーリゾートと相場は決まっている。そこにピリカの名を挙げる者はまずいない。道民の内外を問わずピリカってどこ?ピリカって何?というのが現実的な反応である。その影の薄さは道路的にも然りで、美利河峠越えを目的として国道を走る者は皆無に等しい。だがそれが単なるドライブやツーリングではなく、旧廃道の探索となると話は別だ。一般に美利河峠に古道筋は存在しないとされ、旧廃道に言及した記事を目にした試しはない。事実拡張に次ぐ拡張で形成された現在の峠付近に、並走する別ルートは実在しない。但しその前後には失われた切り通しを補って余りある長大路線が森の奥深くで息を潜めている。そこで目にしたのは道内各地に点在するメジャー物件に勝るとも劣らない涎もののレアな歴史道であった。完踏が叶わない絶望的な廃道の秘奥に見た超絶レア絶景と、辛うじて単車での踏破が叶う長大藪道の現況を余す事なく白日の下に晒す。

 

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◆大型車一台の通行が余裕のフラットダートが続く

上野から青森まで汽車、津軽海峡を渡って、函館、森まで二頭馬車に乗り、森で一泊。八雲まで同じく馬車に乗り、八雲から国縫まで馬車、国縫から花石、今金まで駄馬、そして今金から八束まで駄馬でやってきたのです。

八束小学校初代校長に就いた鈴木勝五郎氏は、明治32年10月に入植した際の行程を克明に記している。函館本線が開業する前夜で馬車がその代役を担っていたが、国縫からは駄馬輸送であったと氏は訴える。また道路幅は駄馬がやっと通れる程度の狭さであったと告白している。

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◆盛土によって路盤は想像以上にしっかりとしている

明治28年仙台から汽車で、青森からポンポン船で函館に渡り、函館から馬車で森まで来て一泊し、翌日国縫に着いた。国縫からバラ石一つ敷いてない道路を、だんこ馬で花石まで来て、東条九太郎さんの駅逓に泊まった。

藤倉の久左衛門公羽氏は11歳の幼少期に種川に入植している。その時分の道路は単なる土道であったと証言している。また丈が2m以上もあるナナツバが密生し頭上で絡み合い、まるでトンネルを潜っている様であったとも語っている。その光景はイタドリのトンネルを掻い潜る現在の山道と瓜二つである。

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◆花石集落へ抜け出る直前の最後の緩いS字カーブ

明治26年2月豊場を出発、海路函館に上陸、冬期の事で定期馬ソリを利用して陸路森八雲国縫に着き、それからは百余人の移民を引き連れ、美利川花石今金を徒歩で雪中行軍を続け、愛知に到着したのは旧正月の元旦の夜でした。

入植は春夏秋冬と時期を選ばずに行われていたようで、百名超に及ぶ愛知団体を引率した治左衛門氏は、真冬の美利河峠を徒歩にて縦走している。一歩間違えば八甲田雪中行軍遭難事件に匹敵する大惨事を招きかねない危険な行程であるが、背景には未開地の開拓は先行者益が大きいという事情があった。

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◆第一人家を射程に捉える花石地区への直線道路

八雲を発ったのは明治二十六年四月末日で、一日がかりで国縫に着き藤田旅館に宿泊した。宿で道を尋ねたら、主人の話では美利河までは道路があるが、花石、北住吉はまだ道路の開さくがないので、なるべく朝早く出発し一日で通り抜けるとよいとの話でしたから、翌朝早立ちして茶屋川から美利河までは道路があり、少しも難儀をせずに過ぎたが、美利河から花石北住吉間は道路とてなく、雑草や笹を踏み分けてつけた足跡の道を通るのでその難儀なこと、道にすわって泣き出す者も出てきたが、互いに励ましあって谷を渡り峠を越え、その日の夕方北住吉の小川のほとりにたどり着いた。

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◆舗装路の両脇には今も人が住まう人家が建ち並ぶ

柴田辰右衛門氏は明治26年の春に北住吉への入植を果たしているが、26年春の時点でまともな道路は国縫と美利河の間に限られ、他は単なる踏分道であったと語っている。氏の到着前年に谷に橋が架かったとの記述があり、また本年は種川から花石にかけて整備するとも書かれている。

この手記を鵜呑みにすれば明治25年に着手された工区は、東瀬棚⇔種川間と美利河⇔国縫間という事になる。全通が翌年に持ち越されたという町史の見解と柴田氏の証言は矛盾しない。種川⇔美利河間の最も厄介な工区が後回しにされ、明治26年末或いはその年度内に全通を果たしたと考えられる。

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◆花石駅前に滑り込んでいたというかつての幹線道路

明治27年には東瀬棚⇔国縫間に郵便路線が開設している。その点を踏まえれば、明治26年度内に利別山道は単なる踏分道の域を脱し刈分道へと進化したのだ。明治28年に入植した久左衛門公羽氏に続き、同32年入植の鈴木勝五郎氏も共にダンコ馬の背に揺られ美利河峠を越しているのがその証左だ。

明治24年までは利別山道という既定路線すらなく、半島の東西を行き来する者が皆無であった時代に、馬の背に委ねる形で半島を横断する事は、余程革命的な出来事であったに違いない。明治の半ばになってようやく駄馬輸送というやや時代遅れの感は否めぬが、近代輸送の波は遠からずこの地へ押し寄せる。

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◆R230旧道に旧旧道がぶつかる花石郵便局のT字路

国縫・瀬棚全線は四三年になって、改修請願の効があって客馬車が通るようになった。

明治43年瀬棚⇔国縫間乗合馬車

その時代の旧版地形図に描かれる道筋は後志利別川の左岸、即ちたった今僕が戦々恐々としながらも美利河から花石へと抜け出た藪道しか存在しない。瀬棚線の開業よりも遥か以前の利別山道に、公共交通機関の灯が既に燈っていたのである。

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