教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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美利河峠(24)

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美利河峠(ぴりかとうげ)の取扱説明書

ニセコ・ルスツ・トマム・・・北海道に於ける片仮名の三文字表記地名は?3秒前、2、1、Q!と行き交う者にいきなり投げかけると、必ずと言っていいほど返ってくるのがメジャースキーリゾートと相場は決まっている。そこにピリカの名を挙げる者はまずいない。道民の内外を問わずピリカってどこ?ピリカって何?というのが現実的な反応である。その影の薄さは道路的にも然りで、美利河峠越えを目的として国道を走る者は皆無に等しい。だがそれが単なるドライブやツーリングではなく、旧廃道の探索となると話は別だ。一般に美利河峠に古道筋は存在しないとされ、旧廃道に言及した記事を目にした試しはない。事実拡張に次ぐ拡張で形成された現在の峠付近に、並走する別ルートは実在しない。但しその前後には失われた切り通しを補って余りある長大路線が森の奥深くで息を潜めている。そこで目にしたのは道内各地に点在するメジャー物件に勝るとも劣らない涎もののレアな歴史道であった。完踏が叶わない絶望的な廃道の秘奥に見た超絶レア絶景と、辛うじて単車での踏破が叶う長大藪道の現況を余す事なく白日の下に晒す。

 

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◆旧版地形図で大曲と称される巨大ヘアピンカーブ

武四郎は五泊六日の行程で国縫と東瀬棚の間をピストンする形で足早に駆け抜けている。国縫を出て三股(美利河)で一泊し、翌日は中里まで足を延ばし、翌々日は種川で夜を明かしている。四日目は西海岸に到着するや否な舟で後志利別川を遡上し、中里で一泊した後、そのまま川舟で三股に着岸している。

往路同様三股からは丸一日を要し国縫へと抜け出ている。復路の半分以上を川舟に頼ったとは言え、半島の東西でほとんど交易の無かった時代に、壮絶を極めたであろう武四郎のそれはまさに探検と呼ぶに相応しく、利別原野の存在を公にした功績は小さくない。

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◆大曲を境に路面状況は一変し山道は登りに転じる

何と言っても東瀬棚と国縫を結ぶ道路有れば至極便利也と幕府に進言したのは武四郎本人であり、江戸年間に砂金目当てでピンポイントで入植した者は居たものの、点ではなく線の重要性を説いた者は武四郎が初であり、今日のR230の礎を築いたのは松浦武四郎と言っても過言ではない。

事実安政年間に武四郎が踏破した道筋は、そっくりそのまま渡島半島横断道路として機能している。彼等の一行は三四郎渕で衣服まで水に浸かり難儀したと訴えているから、道らしい道は無かったとの解釈が妥当だ。少なくとも明治初期の時点で定期的に東瀬棚と国縫の間を往来する者はなかった。

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◆一般の未舗装林道と何等遜色ない好環境の路面

初めてこの界隈にまともな道路が出現するのは、武四郎の進言から四半世紀超を経た明治25年の事である。

明治二十七年には国縫・瀬棚間に郵便路線が開かれた。明治二十五年道路工事が始まったが、三区間のうち一区間の工事が翌年に持ちこされたということが「沿革誌」にのっている。工事完成の記録はないが、この道路が開通し、郵便路線が開かれたのであろう。

利別山道の全線竣工は明治26年

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◆植物が根付けぬほどバラスがたっぷりと撒かれている

長万部町史では秘蔵書の沿革誌を元に、利別山道誕生の経緯を分析している。はっきりと結論付けている訳ではないが、明治25年に開削が始まり竣成は翌年に持ち越され、その翌年に郵便路線が開設されている事実関係から、利別山道の竣工は明治26年度内と見積もっている。

武四郎の探検から大凡四半世紀の空白期間を経て、いよいよ今日の横断道路の基礎となる道筋が姿を現したのだ。路線開設に当たっての直接的な動機として北檜山町史は犬養毅の名を挙げている。この界隈への直接的な集団入植のきっかけは、明治24年の犬養毅の息のかかる団体であったという。

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◆馬車道を彷彿とさせる曲率半径10m前後のヘアピン

明治23年の第一回衆議院議員総選挙で当選していた犬養は、同24年の時点でセンセーと呼ばれる立場になっていた。その影響力を行使してか利別原野に2035万坪の土地の貸付を受けている。道らしい道が無い時代の集団入植は、さぞかし難儀したであろう事は想像に難くない。

一行が犬養にその旨を報告し、事態を憂いた氏が生命線たる道を付けんと奔走したとしても何等不思議でない。今金町史は明治25年12月に国道完成と記している。また殖民広報第66号では明治26年6月今金〜利別山道竣工とあり、神丘郷土誌はこの年インマヌエル(神丘)から国縫まで連絡したと記している。

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◆現役時は全区間がこのレベルにあったとものと思われる

一方瀬棚町史の記述は更に詳細で、明治26年国縫・瀬棚間仮定県道竣工、始めて東西海岸の連絡をみる。延長60粁幅員三・六米笹を刈り分ける程度のものとしていると、他の文献に比し一歩も二歩も踏み込んでいる。もしもそれが事実であるならば本邦初の横断道路は単なる刈分道という事になる。

二六年にさきの国縫―瀬棚間の道路の完成があるが、もっとも頻繁に通う今金―瀬棚間の道路でさえ泥炭地で、道の両側から土を入れた程度であるから、天気の良い日でさえ馬の足がぬかって歩けず、乾いた日をみて運んだものであった。

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◆花石地区の水瓶である花石貯水場に到達

明治25年から同26年にかけて、総延長60kmに及ぶ横断道路は確かに日の目を見た。ただその実態は幅員3.6mを有するものの、刈り払われた通路に土を積み増した程度の御粗末な造りで、車道と呼ぶには程遠いものである事が分かる。

仮定県道とは名ばかりの山道は、徒歩通行並びに駄付馬の通り抜けは容易としたが、肝心要の車両の通行を許さないという致命的欠点を抱えていた。車両通行不可の利別山道時代を脱するには、更に十余年の歳月を要するのである。

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