教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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美利河峠(20)

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美利河峠(ぴりかとうげ)の取扱説明書

ニセコ・ルスツ・トマム・・・北海道に於ける片仮名の三文字表記地名は?3秒前、2、1、Q!と行き交う者にいきなり投げかけると、必ずと言っていいほど返ってくるのがメジャースキーリゾートと相場は決まっている。そこにピリカの名を挙げる者はまずいない。道民の内外を問わずピリカってどこ?ピリカって何?というのが現実的な反応である。その影の薄さは道路的にも然りで、美利河峠越えを目的として国道を走る者は皆無に等しい。だがそれが単なるドライブやツーリングではなく、旧廃道の探索となると話は別だ。一般に美利河峠に古道筋は存在しないとされ、旧廃道に言及した記事を目にした試しはない。事実拡張に次ぐ拡張で形成された現在の峠付近に、並走する別ルートは実在しない。但しその前後には失われた切り通しを補って余りある長大路線が森の奥深くで息を潜めている。そこで目にしたのは道内各地に点在するメジャー物件に勝るとも劣らない涎もののレアな歴史道であった。完踏が叶わない絶望的な廃道の秘奥に見た超絶レア絶景と、辛うじて単車での踏破が叶う長大藪道の現況を余す事なく白日の下に晒す。

 

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◆車道幅がそっくりそのまま浅藪となっている貴重な区間

明治二四年国縫の福田重平は鉱物の探検を行い、翌年寿都の網野広尚の名義でマンガン採掘を出願、二六年採掘許可、函館居留の英国人ハウル商会T.A.ウイルソンは、田中正右ェ門名義で権利を譲り受け事業を拡張した。

今金町史下巻ではざっくりと書かれていた鉱山の経緯が、上巻では事細かに記されている。事の発端は明治24年の福田重平の鉱物探査にあるが、それ以前にも一攫千金を狙って幾人もの探検家がこの界隈を徘徊している。だがそのいずれもが成果には繋がらなかったという。

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◆人為的に掘り割れた待避所と思われる膨らみ

マンガンは国縫まで駄馬輸送し船で函館に回漕アメリカに輸出された。二九年には木道を敷設、三五年には一二ポンド軌道に改め能率を上げた。三〇年一カ月の採掘量が一万トンにも及んだが、三五年頃からその量を減じてきた。

美利河鉱山は明治26年に操業を開始しているが、当初は駄馬輸送、即ち馬の背による原始的な輸送に端を発している。非効率な輸送方法が改善されたのは同29年で、木製のレールが敷かれトロッコ輸送にする事で稼働率が上昇するも、依然として牽引役は馬が担っていた。

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◆浅藪で線形がはっきりと読み取れる貴重な区間

明治29年というと陸地測量部がこの界隈を測量した年である。従って木道の敷設時期と測量時期が重ならなかったとしても何等不自然ではなく、測量隊が去った後に木道が敷設された、或いは敷設の真最中に測量隊が通過した事によって、地形図に軌道が反映されなかったという説明が成り立つ。

山元では軽便ケーブルを架け、集まった鉱石は馬搬式軌道によって毎日四○頭の馬が二往復で運び、国縫からは二千トン級のイギリス汽船で輸送され、大正四年杉林廉作の所有となり、一二年合資会社杉林黒鉛満俺製煉所となった。

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◆目の前の藪の刈り払いをしないとどうにもならない区間

山元とはダム湖の底に沈んだ美利河地区の一角を成す部落で、富岡部落、美利河別部落と共に三つの集落に分かれ、それを束ねていた玄関口が美利河停車場付近で、三集落に通じている事から中心地は三股部落と称された。文脈からは山元と三股或いは山元と峠を索道が結んでいたと解釈出来る。

操業当時は全ての輸送を駄付馬に委ねていたが、木製軌道の敷設で運搬の効率化を図り、後に軌道幅の変更及びレールを鉄製に改め、更なる効率化を目指し索道まで設けた。最終輸送形態は峠を挟み索道と馬鉄によるリレー形式であったようだが、それを補って余りあるのが長万部町史の一節だ。

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◆傾斜地をL字状にカットした藪塗れでも分かり易い線形

明治二十八年には木製の線路を国縫からマンガン鉱山までひいたと「沿革誌」に書いてある。国縫・茶屋川に古くからいる人たちの話を聞くとマンガンは大正のなかばころまでは搬出されていたようである。

今金町史では鉱山の操業停止時期に触れていないが、やや曖昧な表現ながらも長万部町史ではその時期に言及している。大正の半ば即ち大正7、8年頃に鉱山は操業を終えていたという事になる。であれば大正期の地形図に軌道が未掲載であるのも頷ける。何故なら次の測量年が大正8年であるからだ。

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◆見渡す限り高低差無しの直線が続く希少な区間

陸地測量部はこの地域を明治29年に測量しているが、再びこの界隈を測量したのが大正8年であり、鉱山の操業停止後に測量隊の一行が通過したとすれば、当然ながら美利河鉱山の簡易軌道は反映されない。その根拠となる証言がこれだ。

マンガンを運ぶ軌道は木道とか木線と呼ばれていて「私が十六歳になった大正四年には鉄のレールになり、大正五年には軌道がはずされて馬車で運搬するようになったー東谷朝吉―」

大正5年に軌道撤去

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◆直線区は完全なる湿地帯で道中で最悪の泥濘に嵌る

東谷氏は語る、大正5年には軌道が撤去されていたのだと。となると第二次測量隊が通過した際には軌道はどこにも見当たらない。従って地形図に軌道筋が反映されるはずもない。

明治のニアミスに続く大正のニアミスによって、地形図に反映されなかった幻の美利河鉱山軌道。これには流石の中尾彬氏もこう言って首を傾げざるを得ない。

奇遇だねぇ

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