教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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美利河峠(21)

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美利河峠(ぴりかとうげ)の取扱説明書

ニセコ・ルスツ・トマム・・・北海道に於ける片仮名の三文字表記地名は?3秒前、2、1、Q!と行き交う者にいきなり投げかけると、必ずと言っていいほど返ってくるのがメジャースキーリゾートと相場は決まっている。そこにピリカの名を挙げる者はまずいない。道民の内外を問わずピリカってどこ?ピリカって何?というのが現実的な反応である。その影の薄さは道路的にも然りで、美利河峠越えを目的として国道を走る者は皆無に等しい。だがそれが単なるドライブやツーリングではなく、旧廃道の探索となると話は別だ。一般に美利河峠に古道筋は存在しないとされ、旧廃道に言及した記事を目にした試しはない。事実拡張に次ぐ拡張で形成された現在の峠付近に、並走する別ルートは実在しない。但しその前後には失われた切り通しを補って余りある長大路線が森の奥深くで息を潜めている。そこで目にしたのは道内各地に点在するメジャー物件に勝るとも劣らない涎もののレアな歴史道であった。完踏が叶わない絶望的な廃道の秘奥に見た超絶レア絶景と、辛うじて単車での踏破が叶う長大藪道の現況を余す事なく白日の下に晒す。

 

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◆深藪と浅藪は絶えず強弱を繰り返し先行きは不透明

陸地測量部の第一次調査隊と第二次調査隊は、奇しくも図ったかのように美利河鉱山軌道を見過ごし、地図上ではその存在を不確かなもののように装う。しかし地域住民は確かに目撃ドキュンしていた。古老達は覚えている限りの記憶を書き残しているが、その中には非常に興味深い証言が含まれている。

マンガンが盛んに掘りだされたのは「明治三十七、八年のころで、汽車が通るようになってからは汽車で送るようになりー高井隣治ー」「大正十年軍隊に行くころはもうマンガン掘りはやっていなかったー工藤久治郎ー」

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◆幅2m程の川が路上を横切っているが底は浅い

工藤氏は語る、大正10年頃には鉱山は操業を停止していたのだと。今金町史では美利河鉱山の最盛期を明治35年としている。対する長万部町史では高井氏がピークを明治37〜38年と述べている。両者の意見を擦り合わせると、明治30年代中盤を機に採掘量は右肩下がりで推移したとの解釈が成り立つ。

大正5年には軌道が撤去されたという証言と、大正8年測量の地形図に軌道筋が描かれていない点は矛盾しない。晩年は馬車輸送に切り替わっていたという決定的証言が、軌道終焉の駄目出しをしている。これが正しいとすれば美利河界隈に於ける鉄道史は、一旦途切れている事になる。

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◆当山道で最も危険な四輪通行不可の路盤決壊箇所

瀬棚線の開業は限りなく昭和5年に近い昭和4年12月13日で、国縫⇔花石間が先行開業している。大正5年に軌道を撤去という証言が事実ならば、軌道と鉄道は干渉していない事になる。美利河鉱山軌道と瀬棚線は互いの存在を知らぬままこの世に産声を上げ、そして消えていったと考えられる。

図らずも瀬棚線は市民権を得て地図上に鮮明な足跡を残したが、美利河峠に先鞭を付けた簡易軌道はその存在すら公にはされていない。国縫⇔茶屋川間に於いて両者は同様の経路を辿ってはいるが、両者の軌跡が似て非なるものである事は、鉱山軌道が自前の路盤を持たなかった事実が証明している。

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◆この付近から徒歩道サイズのおいちゃん道が並走する

今金・長万部の両町史は語る。軌道は道路に依存していたのだと。確かに橋からトンネルから全ての構造物を新設するとなると、莫大な費用と長期に及ぶ工期は不可避だ。しかし既存の路線に便乗すれば費用は最小に抑えられ、レールを敷くだけであるから工期も短期間で済む。

敷設が楽であった事実を裏返せば、撤去も容易であったのは間違いなく、僅か数か月の突貫工事で仕上げた可能性は大いに有り得る。敷設時の瞬発力も然る事ながら撤去も迅速に履行されたとすれば、神隠しの如し雲散霧消した鉱山軌道を測量隊が見逃したとしても何等不思議でない。

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◆二度目の川渡りでは川底にコンクリ塊が埋設されている

一方瀬棚線は築堤から鉄橋やトンネルに至るまで、自前且つゼロベースで敷設している。多数の殉職者を出している事実が、いかに鉄道敷設事業が過酷であるかを如実に物語る。道路の一部を間借りする形で輸送路を確保した軌道と瀬棚線とは似て非なるもので、両者の結び付きはまるでない。

美利河界隈の鉄道史は明治29年から大正5年までの僅か20年ちょいで一旦途切れ、昭和4年の瀬棚線開業まで13年の空白期間がある。記憶違いによる多少の誤差を加味しても、十余年の無鉄道時代を経ているのは確かだし、それに加え国縫と茶屋川の間に於いても両者の軌跡はまるで異なる。

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◆川底に人工物を捉えるも予断を許さない激藪道は続く

鉱山軌道と瀬棚線のDNAを解析すると、親子関係は0%であると大沢樹生氏も太鼓判を押す。しかも鉱山軌道は現国道230号線筋の一部を拝借しなければ成立し得ないパラサイトトレインでありながら、乗客はノーサンキューというから驚きだ。

美利河満俺鉱石の搬出は木レールに頼る。一般旅人は徒歩。ダンゴ馬客数により増馬。

元今金町長の安部義雄氏は語る。般ピーは徒歩移動もしくは馬背に頼る他なかったのだと。道路の一部を陣取った寄生鉄道の分際で、馬鉄は鉱石のみを運搬したというのだから、美利河鉱山軌道は白鵬の猫だまし同様性質が悪い。

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◆三度目の川渡でも川底にコンクリ塊を捉える

美利河鉱山軌道の営業距離は美利河峠と国縫の僅か12kmで、渡島半島を縦断する瀬棚と国縫の全道程の1/4に過ぎない。ハウル商会代表のウイルソンが馬鉄と駄馬を乗り継ぐ中途半端な営業に難色を示したとしても何等不思議でない。

ただ敢えてウイルソンを擁護すれば、彼自身がトロッコへの便乗を拒否した証拠はない。むしろ彼は旅客運用を望んでいた可能性すらある。しかし結果としてそれは実現しなかった。何故か?それは既に公共交通機関の灯が燈っていたからだ。

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