教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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志戸坂峠(25)

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志戸坂峠(しとさかとうげ)の取扱説明書

トンネル有るとこ旧道アリ、この格言に従って物見遊山していると、旧トンネルもしくは廃トンネルに遭遇し、芋蔓式に鞍跨ぎの古車道を見出しと一粒で二度美味しい優良物件に遭遇する事は珍しくはない。ここ志戸坂峠は現トンネルに旧廃隧道に尾根越え路の親子三代に亘る路の遍歴が垣間見え、老若男女が歴史道を容易に体現可能な峠道は近代土木遺産の優等生である。現場には必要にして十分な案内板等が備わり、自身の四肢と五感を駆使した実体験と、日替わりで時のアイドルと寝る妄想に裏打ちされた超絶想像力によって、誰もが一定の満足感を得られるに違いない。そこに史料が加わればもうお腹一杯で、次行ってみよう!となる。しかし何かが足りない。消化不良の嫌な余韻がいつまでも尾を引くのだ。この後味の悪さを解消するには土壌に一歩踏み込んだ掘り下げが不可避で、土地の人間に成り切る勢いで峠道を再考する必要がある。再三に亘る現地訪問及び全方位的に現場を精査し、公に出る事のない志戸坂峠の核心に迫る。

 

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駒帰集落の外れで親子三代に亘る路線が一堂に会す。鞍跨ぎの峠道が現トンネルの脇からひょっこり顔を覗かすが、その坑口頭上を旧隧道を抜け出てきた旧国道が掠め、ブーメランの如し大きな弧を描いて先に合流した先々代と現道の重複区にぶつかって、三者はひとつになる。

高速規格の現道と馬車道規格の山道はしばらく並走した後、国道373号線と鳥取自動車道に分離する駒帰交差点で峠道は終了し、大概はその交点を以て合流したものと見做す。しかし合流地点の向かいには、ひょろひょろと田畑の合間を縫う小径が待ち受けている。まだ峠区は終わってはいないのだ。

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どこまでを峠区と見做すかは人それぞれであろうが、峠下に値する駒帰の集落は駒帰交差点よりもまだ先に位置し、インターチェンジで区切るのはピリオドを打つのに都合は良いが、峠道を語る上で重要な部分を欠く事になる。何故ならその先には明治初期の峠道がそっくりそのままの形で現存するからだ。

見てくれ、この適当な形の石を積み上げた擁壁を。頂上の前後に見る立派な石垣とは技量的に大きな隔たりがある。必要に迫られた村人が適当に石を積み上げたと言ってしまえばそれまでだが、赤線とか村同士を結ぶ里道とは訳が違い、参勤交代の要路となれば話は別だ。

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そう、この道はかつて智頭往来及び上方往来と呼ばれ、大名行列の一行が通過する由緒ある殿様道に他ならない。田畑の合間を縫う小径は、インターチェンジの外れで現道から離脱する国道373号線に吸収され完全に消息を絶つ。今や明治の馬車道は完全に上書きされてしまっているのだ。

ところが明治道が消え失せる地点の正面には、畦道に毛が生えた程度の小径が続いている。そのみすぼらしさといったら半端なく、通常の感覚であればたった今僕が下りてきた山道とは重ならない。従って二車線路を挟んで対峙する前後の路が同一路線とは到底思えない。僕も最初は半信半疑であった。

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しかし目の前の小径に分け入ってみると事態は一変する。そこに待っていたのは幅員1.5m前後の微妙な路であった。恐らく幅員1m前後であれば見向きもしなかったであろう。しかし現場は車道であって車道でないどっちつかずの状態で、僕をおいでおいでと手招きしている。

この時点ではっきりしているのは、目の前の小径と山道は明らかに別物であるという点だ。山道は物理的にT型フォードの通行を許した。ところがこの小径はT型フォードの通り抜けを許さない。途中にある掘割が絶対にそれを許さないのだ。では車両による通り抜けが叶わないのかというとそうではない。

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現にこうして小径はヘナリワンをあっさりと掘割まで導いている。その道中には車道にあるまじき障害も違和感もなく、幅員の狭さを除けば車道と言い切れなくもない道程が続く。しかも幅員は強弱を繰り返すでもなく、一定の幅をキープしたまま駒帰集落へと続いている。

この通路がどこかで行き止る或いは辺鄙な場所へ抜け出るとかであれば、期待値や妄想からくる単なる思い過ごしとなるであろうが、道中にはそうでない事をアナウンスする案内板が存在する。

皆地地蔵/国境まで十九町

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国境とは因幡國と美作國の境、即ち志戸坂峠を指す。そこへ至る道とは志戸坂峠越えの路そのものである。千代川の左岸ギリギリを伝う小径は、急坂を経て用水路と並走する。狭い坂道であるが、御覧の通り単車の通行を許す。そこに人畜のみが有効の路という決定的な証拠は見当たらない。

むしろ僕の経験では明治黎明期の車道の原型の香りがプンプン漂い、改修碑に刻まれる春冬雪深車馬梗塞の一文がそれを後押しする。この碑文にある車馬とは何ぞや?と考えた時、時代考証を徹底すれば大八車、荷車、車力、人力車が相当と思われ、特に小径を加味すれば車力及び人力車に的は絞られる。

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名著おかやまの峠で志戸坂峠を担当した斎藤伸英氏の稿には、特筆すべき一文がある。それがこれだ。

明治五年に坂根に郵便取扱所ができ車力で輸送にあたる。峠は十二月から三月初めまで通れなくなる。しかし人と郵便は通さなくてはならない。郵便は車から人の背に代わる。道が埋まると馬を追い道を付けた。

冬になると馬を追い道を付けた車力道、それがこの通路だ。

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