教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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志戸坂峠(26)

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志戸坂峠(しとさかとうげ)の取扱説明書

トンネル有るとこ旧道アリ、この格言に従って物見遊山していると、旧トンネルもしくは廃トンネルに遭遇し、芋蔓式に鞍跨ぎの古車道を見出しと一粒で二度美味しい優良物件に遭遇する事は珍しくはない。ここ志戸坂峠は現トンネルに旧廃隧道に尾根越え路の親子三代に亘る路の遍歴が垣間見え、老若男女が歴史道を容易に体現可能な峠道は近代土木遺産の優等生である。現場には必要にして十分な案内板等が備わり、自身の四肢と五感を駆使した実体験と、日替わりで時のアイドルと寝る妄想に裏打ちされた超絶想像力によって、誰もが一定の満足感を得られるに違いない。そこに史料が加わればもうお腹一杯で、次行ってみよう!となる。しかし何かが足りない。消化不良の嫌な余韻がいつまでも尾を引くのだ。この後味の悪さを解消するには土壌に一歩踏み込んだ掘り下げが不可避で、土地の人間に成り切る勢いで峠道を再考する必要がある。再三に亘る現地訪問及び全方位的に現場を精査し、公に出る事のない志戸坂峠の核心に迫る。

 

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志戸坂峠最古の車道@駒帰

駒帰集落の外れにひっそりと佇む古道は、旧上方往来にして初の車道と僕は確信する。広域的な車両輸送が解禁となって間もない明治5年に、志戸坂峠を越す車力が認められる時点で、車道の原型が形作られていた事実は揺るがない。

と同時に明治20年の大改修を待つまでもなく、人力車が峠道を往来していた可能性が大だ。何故なら車幅的に旧態依然とした江戸道でも対応出来たからだ。勿論峠越えには鼻曳きが必須であるが、条件付で輸送は行われていたと考えていい。

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それは大胆な仮説の域に止まるものではない。鳥取と姫路を最短で結ぶ優位性のみならず、昭和初期には西日本随一の長大隧道を穿ち、後発にも拘らず因美線を凌ぐ成績優秀な高速鉄道を敷いた実績からも、志戸坂峠を越すルートが時代を問わずいかに有望株であったかを物語る。

物見峠・黒尾峠・草の原峠・右手峠・志戸坂峠の5ルートを擁すドル箱路線の鳥取⇔智頭間は、明治25年に乗合馬車営業を開始し好成績を収めている。その実績は乗合自動車から鉄道へと引き継がれ、道路と鉄道による強力な陰陽連絡網が敷かれたのは我々の記憶に新しい。

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中央分水嶺を舞台に鉄道と将来の国道を見据えた激しい誘致合戦が繰り広げられた訳であるが、短期的に見れば勝者は誰の目にも物見峠と映る。しかし長期的に見れば真の勝者は志戸坂峠で異論は無かろう。国道と鉄道のみならず高速道路まで備わるのだから、ライバルは手も足も出ない。

道州制のような地方分権が現実味を帯びれば話は別だが、人口減少により衰退一途の地方都市同士を結ぶ峠道に、明るい未来など到底期待は出来ない。首都を岡山に移し岡京新都心とする革命でも起これば話は別だが、そうでない限り志戸坂峠は御当地の絶対王者に君臨し続けるだろう。

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その一人勝ちを収めた志戸坂峠に於いて、明治20年の改修まで車両による通行が叶わなかったとの解釈にはかなり無理がある。最終的に考え得る全ての陸上交通を掌握する優良コースに、御上が介入するまで誰も手を付けなかった、その一件に僕は大いなる違和感を覚える。

姫路という関西圏の玄関口に直結する有望路線には、広域的な車両輸送の解禁直後より民間資本民間主導による試行錯誤が繰り返され、東京で人力車の爆発的普及をみた明治黎明期には、富裕層からの寄付や沿線住民の道普請等により、車両の受け入れ体制が整っていたと僕は睨んでいる。

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その道程は馬車道とは程遠い代物ではあるけれど、段差や根株などの障害物が取り除かれた峠道は、ハイキングコースのような歩き易い道路に仕上がっていたのではないか。その証拠に皆地地蔵区はあっさりと単車の通行を許すし、車格1mちょいの小型車両であれば幅員的に全く問題はない。

その許容範囲内に収まる人力車は、当時の主力機関である車力に交じり、大改修以前の志戸坂峠を行き来していた。それが春冬雪深車馬梗塞の車馬に含まれ、車両の多くは郵便車力を筆頭とする荷車力であったが、いずれにしても明治5年の時点で志戸坂峠を車両が越していたのは確かだ。

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駒帰の下流に位置する楢見や福原地区には、渓谷と化す千代川の深淵を避けるように、山肌にへばり付く上方往来の姿が認められる。それは車道とは大きく乖離した人畜のみが有効の小径で、1mに満たない道幅や単車がウイリーするほどの勾配、それに階段や段差といった致命的な障害を含んでいる。

それが旧態依然とした江戸道であると仮定すれば、皆地地蔵区のそれは似て非なるものである。石垣に擁護された古道筋は熊野古道と瓜二つで、人と牛馬のみが通り抜けを許される完全なる人道に他ならない。逆説的に皆地地蔵区は現存する唯一の暫定車道である可能性が大だ。

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最後になるが著書「峠の今昔」で著者の鷲見貞男氏は、志戸坂峠について以下のように述べている。

現在のトンネル(志戸坂隧道)が完成するまで人力車や小型乗用車が通っていた

鷲見氏はミスター志戸坂峠が知り得ぬ情報を持ち合わせていたのだろうか?日常的な峠道の往来を連想させる通っていた小型乗用車とは何ぞや?どうやら僕には宿題が課されたようだ。智頭狂想曲はまだ終わりの始まりに過ぎない。

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