教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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志戸坂峠(20)

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志戸坂峠(しとさかとうげ)の取扱説明書

トンネル有るとこ旧道アリ、この格言に従って物見遊山していると、旧トンネルもしくは廃トンネルに遭遇し、芋蔓式に鞍跨ぎの古車道を見出しと一粒で二度美味しい優良物件に遭遇する事は珍しくはない。ここ志戸坂峠は現トンネルに旧廃隧道に尾根越え路の親子三代に亘る路の遍歴が垣間見え、老若男女が歴史道を容易に体現可能な峠道は近代土木遺産の優等生である。現場には必要にして十分な案内板等が備わり、自身の四肢と五感を駆使した実体験と、日替わりで時のアイドルと寝る妄想に裏打ちされた超絶想像力によって、誰もが一定の満足感を得られるに違いない。そこに史料が加わればもうお腹一杯で、次行ってみよう!となる。しかし何かが足りない。消化不良の嫌な余韻がいつまでも尾を引くのだ。この後味の悪さを解消するには土壌に一歩踏み込んだ掘り下げが不可避で、土地の人間に成り切る勢いで峠道を再考する必要がある。再三に亘る現地訪問及び全方位的に現場を精査し、公に出る事のない志戸坂峠の核心に迫る。

 

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志戸坂峠の定説が覆るかも知れない。その予感は本格的な調査を開始する遥か以前からあった。明治20年前後になってようやく馬車道と呼ばれる高規格道路が整備されたという通説は、岡山県下の個々の峠の掘り下げによって悉く覆された。まるでオセロの駒が黒から白に一気に反転するが如しだ。

中央分水嶺だけは例外と思っていたが、実はそうでもないようだ。決定打となったのは小田県時代の人力車の入村規制問題で、北条県と共に吸収合併された小田県に於いて、既に人力車の運行が物議を醸すほどに闊歩していた事実がある。小田県は明治9年に消滅しているから明治一桁の出来事だ。

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ワンメーターの短距離客よりも長距離便の方が格段に儲かる。この経験に裏打ちされた原理原則は今も昔も変わらない。だとすれば市内で短距離客を複数捌くよりも、都市間移動を筆頭とする超距離客にターゲットを絞った方が得策である。先人達も同じ心境であったに違いない。

まだ鉄道も自動車も自転車さえも無い時代であるから、陸上の移動手段として卓越したスピードを誇る人力車への期待値は半端ない。果たしてその時代にまともな峠道が無いからという理由で、分水嶺越えを諦めるだろうか?他に選択肢が無い時代に、車夫はそう簡単に乗車拒否などするであろうか?

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他に幾らでも代替手段があるなら兎も角、ナイナイ時代に於いて最速を誇る人力車への期待値は高く、だからこそ多くの峠で江戸道を梃入れし突貫で仕上げた暫定車道で当座を凌ぎ、多少の無理を承知で難所越えに挑んだのだ。その際乗客もリスクを共有せねばならず、乗る方も乗せる方も命懸けであった。

最後のヘアピンカーブを曲がり終えると、峠はもう目と鼻の先にある。90度左に折れ曲がる最終コーナーの右手には、植林されて久しい家一軒分に更地が認められる。坂根の長老はその窪地を茶屋跡と呼ぶ。幼少の頃現役で営業していたという茶店の様子はこうだ。

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集落の半分くらいは鳥取から嫁いでいる。駒帰の者を送迎するのは志戸坂の峠で、幼い頃は送り迎えの度に頂上まで登った。そこで必ずと言っていいほど立ち寄るのが峠の茶屋で、志戸坂饅頭を食べるのが習慣だった。

昭和9年の新道開通時まで存在したという峠の茶屋は、人々の思い出の中だけに留まり今は跡形もない。茶店の名物志戸坂饅頭を頬張り一服するのが習わしで、長老はいつ何時も賑わっていた思い出しかないという。そりゃそうだ、だってこの道しか無かったんですもの!

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夏場の富士山並みとまでは言わないが、坂根と峠の間で何人もの人々と擦れ違うのが当たり前で、人っ子一人見当たらない閑散とする現況とは似ても似つかないシーンである。我々現代人が喧騒的な峠道を想像するのは難しいが、長老の中では活気に満ちている状況しか浮かばないという。

その茶屋跡を過ぎるといよいよ切り通しに入るが、右手には明治20年の大改修の際に建立された記念碑が鎮座する。表裏共にびっしりと文字が彫り込まれているが、漢字と片仮名による暗号の如き長文は読む気にならず、毎度の事ながら何言ってるのか分かりません。そこで小谷氏の登場だ。

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吉野郡坂根村は、鳥取県智頭群駒帰駅に接し、その間に坂があり、“志戸”と言っている。因伯作州に通ずる県道で、物資輸送の要である。坂道は羊の腸のように曲がり険しく、三十三曲がりという。夏秋は、雨で道が荒れ、人、牛馬、車が転覆する。春冬は雪が深く、車馬は不通となる。村民が、そのため徒歩で運ぶ。雪のために埋まり、死ぬこともある。岡山県知事・千坂高雅は、これを憂え、坂を開く。いま志戸坂は、これまでの坂ではない。

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これまでの坂ではない!

後世に残る碑文を石に刻むにあたり、予め文言が煮詰められたであろう事は想像に難くない。これまでの坂ではないというフレーズは、今を生きる我々の世代にも響く力強さがある。

時の県令は開通式に人力車で現れたに違いない。明治20年になってようやく人力車が峠を越せるようになったのだ。ちょーっと待った!ならば碑文にある車って何じゃらホイ?

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