教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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志戸坂峠(19)

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志戸坂峠(しとさかとうげ)の取扱説明書

トンネル有るとこ旧道アリ、この格言に従って物見遊山していると、旧トンネルもしくは廃トンネルに遭遇し、芋蔓式に鞍跨ぎの古車道を見出しと一粒で二度美味しい優良物件に遭遇する事は珍しくはない。ここ志戸坂峠は現トンネルに旧廃隧道に尾根越え路の親子三代に亘る路の遍歴が垣間見え、老若男女が歴史道を容易に体現可能な峠道は近代土木遺産の優等生である。現場には必要にして十分な案内板等が備わり、自身の四肢と五感を駆使した実体験と、日替わりで時のアイドルと寝る妄想に裏打ちされた超絶想像力によって、誰もが一定の満足感を得られるに違いない。そこに史料が加わればもうお腹一杯で、次行ってみよう!となる。しかし何かが足りない。消化不良の嫌な余韻がいつまでも尾を引くのだ。この後味の悪さを解消するには土壌に一歩踏み込んだ掘り下げが不可避で、土地の人間に成り切る勢いで峠道を再考する必要がある。再三に亘る現地訪問及び全方位的に現場を精査し、公に出る事のない志戸坂峠の核心に迫る。

 

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往来の道幅は東作誌には約二間とあり、往還道図では古町付近は最も広いところで二・五間あるが、他はほぼ一〜一・四間と記され、坂根付近も平均五尺となっており、山陽・山陰道と比べると狭かった事が分かる。

歴史の道調査報告書では因幡往来の道幅に言及している。古町付近の最大幅が東作誌で3.6m、往還道図で4.5mとなっており、その他は2〜2.5mで、最も狭い坂根集落に於いても幅員1.5mをキープしていたと主張する。時代背景を考慮すれば、この数字は悪くない。

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東作誌は浦賀沖に黒船が現れた嘉永6年の編纂で、幕末の古町付近が幅員3.6mの幅広道であったと伝えているが、同じ古町界隈が往還道図では4.5mに膨張している。この間に往来に何等かの梃入れが成されたとすれば合点承知之助だが、そうは問屋が卸さない。

なんと驚くべき事に往還道図は明治初年の編纂なんである。正式名称は「北条県第拾四區美作國吉野郡縦大原驛美作國因幡國境迄往還道圖」といい、報告書では単に往還道図と略している。更にDAIGOがODZと略すも北条県って何すかっ?といいかねないので掻い摘んで説明しておこう。

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北条県とは明治4年〜同9年に存在した短命の県で、美作界隈を統括するに当り県庁所在地を津山に置き、明治9年に小田県と共に岡山県へと編入され消滅している。ここで疑問に思うのは明治初年発刊とされる道図と、同4年に設置された北条県のタイムラグであるが、こう考えると頷ける。

明治初年に測量をし、北条県時代に編集・発刊された。往還道図はどんなに遅くとも明治一桁の時点で世に出ており、江戸時代の資料を元ネタに編纂されたパクリものではない。元号が明治になったまさにその瞬間の在りのままの因幡往来を克明に記録した一次史料なんである。

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その一級資料が古町の最大幅を4.5m、その他の区間は2〜2.5m、最狭区でも1.5mと謳っているのである。

(坂根は)文字通り坂の集落で、幅約1.5m前後のコンクリート舗装が施してある。往還道図に「人家ノ間二小阪アリ此間均壱間」とあり、一致している。

往還道図では坂根の集落内は平均1.8mと謳われており、歴史の道調査報告書では明治一桁の時代と現況が一致するとの見解を示している。俗に言う明治20年の改修路ではない。明治維新の頃の路だ。

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幕末の因幡往来最狭区は1.8m

東作誌と往還道図の隔たりはたったの14年しかない。恐らくはその間に地味に道幅が拡げられた。幕末動乱のドサクサに紛れ古町を筆頭とする因幡往来は、定説とされる明治20年の大改修以前にすっかり様変わりしていたのだ。

測量が明治初年であれば江戸末期の改修という事になるし、北条県時代の測量であれば明治黎明期という事になるが、いずれにせよ往還道図なる不動の物的証拠が、明治一桁の時点で志戸坂峠が車両の往来を許していた可能性を示唆する。

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うちの裏手を最古の往来が通っている。人一人通るのがやっとの狭い道だが、それが最も古い因幡往来と聞いている。大昔は家の裏側を通っていたそうだが、いつしか家の正面を通るように付け替えられた。

坂根の長老は主張する。家の裏手を伝う獣道のような小径が昔の街道筋であると。現場は畦道と見間違うほどの酷く痩せた通路で、車両通行とは無縁の人畜のみが有効の路は、江戸時代もしくはそれよりも遥か以前の古代の路を想像させる。対する二代目の路は車両が通れそうで通れない微妙な幅員だ。

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長老は縁側の正面を通過する小路を二代目と称し、最後は国道を名乗った旧国道筋を指して三代目と言い、対岸を走る高規格道路を杖で指し、あれが四代目と言った。また二代目は戦後になって拡張したのだと付け加える。

二代目の路は現状でも軽自動車の通行がギリギリアウトの狭隘路で、それが後年の拡幅となると、二代目の路は人畜のみが有効の完全なる江戸道としか考えられない。となると三代目の路が車道の起源である事はほぼ間違いない。

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