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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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志戸坂峠(18) ★★★★★ |
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志戸坂峠(しとさかとうげ)の取扱説明書 トンネル有るとこ旧道アリ、この格言に従って物見遊山していると、旧トンネルもしくは廃トンネルに遭遇し、芋蔓式に鞍跨ぎの古車道を見出しと一粒で二度美味しい優良物件に遭遇する事は珍しくはない。ここ志戸坂峠は現トンネルに旧廃隧道に尾根越え路の親子三代に亘る路の遍歴が垣間見え、老若男女が歴史道を容易に体現可能な峠道は近代土木遺産の優等生である。現場には必要にして十分な案内板等が備わり、自身の四肢と五感を駆使した実体験と、日替わりで時のアイドルと寝る妄想に裏打ちされた超絶想像力によって、誰もが一定の満足感を得られるに違いない。そこに史料が加わればもうお腹一杯で、次行ってみよう!となる。しかし何かが足りない。消化不良の嫌な余韻がいつまでも尾を引くのだ。この後味の悪さを解消するには土壌に一歩踏み込んだ掘り下げが不可避で、土地の人間に成り切る勢いで峠道を再考する必要がある。再三に亘る現地訪問及び全方位的に現場を精査し、公に出る事のない志戸坂峠の核心に迫る。 |
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◆ 近年になって大幅な線形の変更が成された特別な工区の上端には、峠まで800mの案内板が立つ。駐車場から300m進んだ地点に待ち構えるブル道の如し激坂は、ロリエワンを軽く一蹴し返す刀でヘナリワンの進退にも揺さぶりをかけた。結論から言うと単車での通り抜けは叶姉妹である。 タイヤの溝が無いとか規定の馬力が出ない等のトラブルがない限り、軌道を修正する等の試行錯誤によって克服出来るレベルにある。しかし勢いやテクニックによって走破出来る路は、一般道とは対極にある極めてイレギュラーな路だ。九十九折を廃し前後の路を無理矢理繋げた路は、実に狂気染みている。 |
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◆ 本来であれば三度のヘアピンカーブを駆使して高度を一気に稼ぐ区間を、等高線を無視したかのような直線で斜面を駆け上がる仕様に変更してあるものだから、仮にエスケープルートを解放してもほとんどの車両は成す術もなく、駐車場から300m地点で無念の撤退を余儀なくされる。 軌道修正した先には幅員三間はあろうかという潤沢な路が待っているが、大方の車両はそこに自らの轍を刻む事は出来ない。重機等のキャタピラ車なら苦もなく駆け上がれるのだろうが、砂利を撒いただけの斜面を直登出来る一般車は極一部に限られ、坂の途中でズルズルと後退するのがオチだ。 |
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◆ 幅50m前後の狭いピッチで二度三度と折り返すのが面倒であったのか、それとも侵入者の排除を目的に激坂を設けたのであろうか?兎にも角にも四駆の軽トラでさえ行き来出来ない完全なるブル道仕様の急坂は、作業従事者自らの首を絞めるのと引き換えに、ゲートを突破した者を更なる篩にかける。 不思議なのは頭上に待つ幅広道にダブルトラックが認められる点で、緑の絨毯には薄らと二本の轍が確認出来る。それがキャタピラの跡であれば納得だが、そうでなければ二条の轍は不可解で、そいつは第一障害を突破した来訪者を天上界へと導く。その道中には元幹線路を主張する派手な石垣が目立つ。 |
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◆ 規格物の切石ではないので昭和の施工ではなく、大正もしくは明治後期の改修と推察されるが、個々の石が人の手で運べるギリギリのサイズで、一人一個ずつ背負ってきたというのも有り得る話だが、施工時期が明治の晩年もしくは大正となると、やはり馬車で搬入したと捉えるのが妥当である。 事実道中は複数の欠損箇所こそあれど、全体的には自動車の通行を許す規格の路で構成されている。従って荷台に複数の石を積載した馬車が投入されたと考えるのが自然だ。当山道の改修に当り馬車が活躍した。少なくともトンネル開通前夜の最後の改修では馬車が事に当っているのは間違いない。 |
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◆ 静かであった山村に、連日に亘る火薬の響き、トロッコの音、数多くの土工など、坂根は活気に溢れる毎日であった。附帯道路は両県側ともかなり長く、埋立、切取りなどいまのような機械力はなく多くの人力と日数を要した。 村史はトンネル工事の資材搬入に供した主力機関をトロッコとしており、その他に関わった車両に関しては言及していない。しかし峠の直下に風穴が開くその日まで、指揮官を乗せたお抱えの人力車が、ほぼ毎日のように県界を跨ぎ、陰陽間の連絡を密にしていたであろう事は想像に難くない。馬車も然りだ。 |
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◆ むかしの荷物運搬は、村で道路の開通をみるまでは人の背中で、或いは天秤棒などでかつがれ遠くへは牛馬を利用するより他はなかった。次第に道路が開発されるようになり、これと相前後して荷積牛馬車が村へ入ってきた。 大芽村の堂本勘蔵より坂根駅駅逓取締人を通じて明治18年7月18日付けで、古町分署宛に陸運家業の願出が出されている。荷車を牛に曳かせる牛車の届出で、これが村内に於ける牛馬車の起源か否かは定かでないが、一次史料として確認出来る当界隈の先駆的存在である事は間違いない。 |
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◆ 明治18年といえばまだ志戸坂峠の大改修が成される前で、同年11月に着工し1年と8ヶ月を要した大規模な改修により、明治20年6月に車両通行に対応した峠に生まれ変わったというのが通説で、出所は切り通しに今も鎮座する改修記念碑だ。 果たして堂本勘蔵が操る牛車は開業届を提出して以後、凡そ2年の間分水嶺越えを避け平地運輸に徹していたのであろうか?もっと言うと人力車は改修以前の十余年間、峠を前にして残念無念と黙って見過ごしてきたのだろうか? 志戸坂峠19へ進む 志戸坂峠17へ戻る |