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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>志戸坂峠 |
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志戸坂峠(10) ★★★★★ |
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志戸坂峠(しとさかとうげ)の取扱説明書 トンネル有るとこ旧道アリ、この格言に従って物見遊山していると、旧トンネルもしくは廃トンネルに遭遇し、芋蔓式に鞍跨ぎの古車道を見出しと一粒で二度美味しい優良物件に遭遇する事は珍しくはない。ここ志戸坂峠は現トンネルに旧廃隧道に尾根越え路の親子三代に亘る路の遍歴が垣間見え、老若男女が歴史道を容易に体現可能な峠道は近代土木遺産の優等生である。現場には必要にして十分な案内板等が備わり、自身の四肢と五感を駆使した実体験と、日替わりで時のアイドルと寝る妄想に裏打ちされた超絶想像力によって、誰もが一定の満足感を得られるに違いない。そこに史料が加わればもうお腹一杯で、次行ってみよう!となる。しかし何かが足りない。消化不良の嫌な余韻がいつまでも尾を引くのだ。この後味の悪さを解消するには土壌に一歩踏み込んだ掘り下げが不可避で、土地の人間に成り切る勢いで峠道を再考する必要がある。再三に亘る現地訪問及び全方位的に現場を精査し、公に出る事のない志戸坂峠の核心に迫る。 |
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◆鳥取県側の隧道坑口に佇む昭和初期の記念碑 時は昭和8年3月12日、沿線住民の積年の思いが結実する瞬間がやってくる。当界隈に数多ある陰陽連絡路に先鞭を付けるべく志戸坂峠に待望の風穴が開くという。国道指定を受けていない一地方道としては異例と言っても過言ではない措置で、その日起工式と同時に予定線に最初の一撃が加えられた。 発破に掘削機といった最新技術が惜しみなく投入された結果、まだ着工から1年半しか経過していない翌年の9月には供用が開始され、従来の峠越えは過去のものとなった。だが好事魔多しとはこの事で、志戸坂新道は予期せぬ災害に見舞われる。この時の様子を坂根の江原健氏は次のように回顧する。 |
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◆立木に紛れ存在感が希薄な一時代前の案内標識 隧道の入口には昭和九年九月の石柱が立っているが、実際に通行できるようになったのは、翌十年になってからだ。トンネルは出来上がり完成式も鳥取側の中原の小学校で行ったが、坂根側の道に土砂崩れがあり通れなくなった。 時は昭和9年9月21日、強い勢力を保ったまま高知の室戸岬に上陸した台風は、近畿圏を中心に筆舌に尽くし難い深い爪痕を残す。上陸時の中心気圧は911ヘクトパスカルで、この数字は今日現在も破られていない記録的且つ破滅的な数字である。事実この台風一発で死者は3千人に及んでいる。 |
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◆隧道を抜け出てきたドライバーに訴える標識類は健在 室戸台風の影響で西日本の川という川が氾濫し、河川のみならず道路及び鉄道のインフラはズタズタに破壊された。福渡付近では川岸を伝う国道53号線の大半が流出し、並走する中国鉄道は永久橋と謳われた鋼鉄のガーター橋をいとも簡単に流された。まさに100年に一度あるかないかの激甚災害である。 当界隈も例外ではなく山の保水能力を上回る集中豪雨により、新道のあちらこちらで土砂災害に見舞われたであろう事は容易に想像が付く。致命的な被害は峠道の坂根側にあったと江原氏は語っているが、普段は大人しい沢筋の多くが豹変し、新道の随所に深刻な打撃を与えたのは間違いない。 |
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◆杉林を二分する盛土で構築された狭い二車線路 現在は全線二車線の舗装路に衣替えしている旧道であるが、新道と呼ばれた時分は当然の如し路面は未舗装路で、その道筋を擁護するのもまた旧態依然とした石垣であった。従っていくら当時の最新技術を以てしても、破壊の限りをし尽くす史上最強の台風の前には成す術がない。 近畿圏一帯が総岸辺のアルバム状態の渦中で、唯一その難を逃れた箇所がある。それが志戸坂峠の直下に穿たれた長大隧道だ。そこへ至るアプローチはズタズタに断ち切られたものの、隧道そのものは台風の影響をほとんど受けなかった。ってかコンクリ隧道は史上最大の台風を完全に受け流した。 |
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◆志戸坂峠道路の坑口頭上を横切る旧国道 台風一過の晴天下で甚大な被害が赤裸々となる中で、志戸坂隧道はほぼというか全くの無傷で難局を乗り越えた。それは単に峠越えの苦労から解放されたとか、移動時間が大幅に短縮されたとか、ようやく自動車が行き来出来るようになったという次元を遥かに越えている。 隧道は安全確実に台風をやり過ごすシェルターにして、人々の生命を脅かす天災に左右されない強靭な耐性を備える。竣工と同時に史上最強の台風を喰らった志戸坂隧道は、図らずもその堅牢性及び耐久性を世に知らしめる事となった。これを永久洞と呼ばずして何と言う?
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◆曲率半径50mの巨大ヘアピンで反転し高度を下げる 隧道に至る前後のアプローチは寸断されているので、新道全体としての評価は褒められたものではない。しかし肝となる隧道がほとんど影響を受けなかった事で、昭和10年には全面復旧を果たしている。再開通の詳細な月日は定かでないが、恐らく雪解けを待っての春先と考えるのが妥当だ。 竣工とほぼ同時に記録的天災に見舞われた志戸坂隧道。事実上の運用は昭和10年の春以降となるが、書面上並びに一般的に語られる昭和9年の竣工時は、国内第三位の延長を誇る長大隧道であった。トップは言わずと知れた栗子隧道で、二番目が長崎の日見隧道、志戸坂はそれに次ぐ存在であった。 |
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◆現国道に旧国道がぶつかる案内板も信号機も無い交点 長さ565mは大正15年に竣工した中辺路の逢坂隧道を僅かに12m上回り、戦前の長大隧道としてその名を全国区へと押し上げた。三重のアーチ環と三段の笠石、それと左右にある燭光の窪みが特徴であるが、坑門は割と大人しい。 ド派手な装飾でドヤ顔をする面々が多い時代にあって、控えめな坑門には好感が持てる。それもトップクラスのスペックがあってこその容姿なのだろうが、主張し過ぎないデザインは戦後の量産型に通じる赴きがある。 志戸坂峠11へ進む 志戸坂峠9へ戻る |