教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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志戸坂峠(7)

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志戸坂峠(しとさかとうげ)の取扱説明書

トンネル有るとこ旧道アリ、この格言に従って物見遊山していると、旧トンネルもしくは廃トンネルに遭遇し、芋蔓式に鞍跨ぎの古車道を見出しと一粒で二度美味しい優良物件に遭遇する事は珍しくはない。ここ志戸坂峠は現トンネルに旧廃隧道に尾根越え路の親子三代に亘る路の遍歴が垣間見え、老若男女が歴史道を容易に体現可能な峠道は近代土木遺産の優等生である。現場には必要にして十分な案内板等が備わり、自身の四肢と五感を駆使した実体験と、日替わりで時のアイドルと寝る妄想に裏打ちされた超絶想像力によって、誰もが一定の満足感を得られるに違いない。そこに史料が加わればもうお腹一杯で、次行ってみよう!となる。しかし何かが足りない。消化不良の嫌な余韻がいつまでも尾を引くのだ。この後味の悪さを解消するには土壌に一歩踏み込んだ掘り下げが不可避で、土地の人間に成り切る勢いで峠道を再考する必要がある。再三に亘る現地訪問及び全方位的に現場を精査し、公に出る事のない志戸坂峠の核心に迫る。

 

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◆140度前後で弧を描く見通しの利かない大カーブ

完全なるヘアピンカーブとまでは言えないが、150度前後で大きく振れる急カーブは、4つ目のカーブとカウントしても差支えない。坂根集落の外れから数えてヘアピンカーブは既に4箇所となるが、それをもう4箇所と捉えるか、まだ4箇所と捉えるかは経験値によって異なる。

現道時代・旧道時代を問わず何度も通った者ならば、既にこの時点で三十三曲が旧国道のそれでない事が理解出来る。何故なら隧道の坑口はそれほど遠くない距離に位置するからだ。細かい曲線を加算すれば辻褄を合せる事は可能だが、素人目線で折れ曲がるくらいの勢いでないとカウントはし辛い。

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◆今も踏み止まる警戒標識が厳しい線形と訴える

坂根集落の外れから数えてヘアピン状のカーブは、どんなに多めに見積もっても4箇所に過ぎない。あとは90度にも満たない小規模コーナーの連続で、少なからず存在する見通しの良い直線区間を加味すれば、岡山県側のカーブはどうやっても十指に満たない。鳥取県側も同様である。

それはあくまでも二代目の最終形態のみを捉えたものに過ぎず、もしかしたら昭和新道が竣工した当時の線形は、今以上にカーブに富んでいた可能性も否定出来ない。戦前から昭和の晩年に至る過程で目立った改良が加えられなかったと決め付けるのは、少々乱暴な気もする。

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◆R373の旧道と旧旧道がX状で交わる重要な交点

しかし現場には昭和新道竣成時をキープする残骸は認められず、峠区には大原からの道中に散在する鮮明な旧道筋というものが存在しない。二代目は大規模な改修が成されぬまま現役を退いたとの解釈が妥当で、大胆な軌道修正が行われず拡張という形で凌いでいたに違いない。

日増しに増える一方の車両のストレスは半端なく、いよいよ当路線は抜本的な改修に取り組まざるを得なくなった。それに拍車を掛けたのが黒尾新道の成立で、大型車同士の洞内離合を許す非の打ち所のない新型トンネルは、古参隧道に引導を渡すと同時に大いなる刺激を与えたであろう事は想像に難くない。

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◆旧道と旧旧道の交点には中腹より移築された太子堂

二代目志戸坂峠道は道路状況のみで精査すれば、ほぼ完璧な二車線規格にあるのでまだまだやってやれない事はない。完全なるヘアピンカーブが含まれるから若干の割引は必要だが、ヘアピンの余白を大きく取るとか登坂車線を新設するなど使い勝手を追求すれば、まだ十分に供用可能な余地がある。

ただ旧道には歩道が無いという致命的な欠陥がある。努力の甲斐あって車両同士の相互通行の実現には漕ぎ着けたが、その代償として交通弱者が蔑にされた。歩行者及びチャリは明治道を伝い鞍部を跨いで越境しろとでも言うのだろうか?そう思えるくらい二代目の車道には余裕がない。

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◆旧道と化し静寂を取り戻してから新設された公園

その道中には休憩所が設けられている。水洗便所に東屋にベンチが備わるそこそこ立派なものだ。この施設は現役を退いてから設けられたもので、志戸坂峠関連の案内板がある事から、旧道探訪を趣味とする観光客向けに整備されたものである。案内板のひとつに以下のような記述がある。

戸数は相当にある。川沿いや、峠の中腹や、石ころ畑や、この川の十町ばかり上流には、小城ながら新免伊賀守の一族が住んでいたし、もっと奥には因州境の志戸坂の銀山に、鉱山掘りが今もたくさん来ている。

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◆この公園が志戸坂峠への正規の玄関口となる

志戸坂峠に銀山アリ

この一文は吉川英治著宮本武蔵からの抜粋である。案内板はかつての志戸坂峠に銀山があったと主張する。その証拠として吉野川沿いに人家が密集し、峠の中腹にも人家があったというリアリティに富んだ記述まである。

二代目の峠道には中腹という概念がない。何故なら坂根集落背後のかなり低い地点で隧道の坑口を迎えるからだ。福島の大峠のようにある程度登り詰めてから短い風穴を潜るのではない。500m超に及ぶ長大隧道でぶっこ抜いているのである。

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◆宮本武蔵と峠が無関係ではないと主張する案内板

吉川英治の言う峠の中腹、それはズバリ志戸坂峠最古の道路沿いとの解釈が成り立つ。追い越し禁止のセンターラインが残る二代目の路ではない。実際に坂根集落以後の旧道筋に人家及びそれらしき痕跡は見当たらない。

休憩所の窪地が人家の跡という可能性も否定出来ないが、それ以外にほとんど取り付く島が無いというのが実情で、この休憩所から幾らも走らないうちに、戦前を代表する長大隧道が我々の前に朽ちた果てた自身の醜態を晒している。

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