|
教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
|
|
トップ>旧道>岡山>鎧乢 |
|
|
鎧乢(4) ★★★ |
|
|
鎧乢(よろいたわ)の取扱説明書 津山と勝田を結ぶ現在の国道429号線の礎を築いた津山真加部街道。その道中には二つの峠が存在する。ひとつは言わずと知れた出雲乢であるが、もうひとつの難所が鎧乢である。何だか戦国時代の戦をイメージさせる名称で、古来峠が戦の舞台となってきた歴史的事実を踏まえれば、この峠にもきな臭い伝説・伝承があっても全く驚けない。だが実際の現場は意味深な名称とは裏腹に、宗谷丘陵にも似た起伏の緩い穏やかなアップダウンを駆け抜ける快走路となっている。通勤・通学・ドライブといかなる車両も足早に過ぎ去る峠を敢えてスローモーションで通過すれば、通常では見えないものが見えてくる。それが旧道や街道といった古道筋の断片だ。散在するパーツを丁寧に拾い集め、一介の街道が国道昇格を果たすまでの軌跡を紐解く。 |
|
|
|
◆ 鎧乢には現道と干渉しない旧道が、往時の姿を留めたまま現存する。二車線の快走路に上書きされてしまっている区間もあるが、一部に普通車同士の擦れ違いさえ危うい1.5車線時代の狭隘路がそっくりそのまま残っている。それも思いっきり頂上付近にあるから驚きだ。 旧道の線形を見る限り、一時代前の路は蛇行する形で峠を越えていたのは間違いない。S字カーブを串刺しにした頂上付近を筆頭に、その前後は両サイドに旧道の残骸が確認出来る。つまり改修以前の峠道はスラローム状に波を打っており、直線区間が極めて少なかったという事だ。 |
|
|
◆ 一時代前の鎧乢は見通しの利かない狭隘路で、今日の快走路とは似ても似つかない駄路であったのだ。路の拡張及び直線化が成された現在でも真っ当な峠道であるが、以前は現況と同等かそれ以上に峠らしい峠であったと考えられ、鎧乢が峠と認知されていない事が僕には理解出来ない。 勝田側の下り坂でも旧道は串刺し状で分離され、しかも新道が旧道に乗っかる形で敷設されている為、顔を出しているのは側溝脇の僅かばかりの切れ端という有様だ。しかしその僅かな断片には白線が認められ、そいつが一時代前の本線であると訴えているが、十中八九ドライバーの視界には届かない。 |
|
|
◆ 走行中にその存在に気付いたら大したものだ。僕は鎧乢解体新書を執筆するつもりで現場を精査し発見に至った訳だが、ドライブ中の何気ない一コマで現道の下敷きになっている旧道の白線を捉えたなら神である。何故ならドライバー目線では歩道を挟んだ先の側溝付近を覗き込まないと捉えられないからだ。 津山方面から峠を越して普通に下って来ると、まずその存在に気付く事はない。路の大部分を新道に食われた旧道の断片が、僅かに顔を覗かせている事などなかなか想像し辛く、少し下った所で分離する新旧道の交点で、消えそうで消えない白線を追うのが関の山だ。 |
|
|
◆ 現道から分離する旧道を捉えるのは楽勝で、歩道の先で膨張し続ける“もうひとつの歩道”が旧道であると気付くのにそれほど時間は掛らない。今も機能する法面の一部に石垣が見え隠れし、ダート時代の峠越えの一端を今に伝えている。その頃はT型フォードを改造した車両が、えっちらこっちらと峠を越していた。 大正九年、勝間田の井並徳太郎が丸井運輸という津山−真加部間の乗合自動車を走らせた。開通当時、急なところでは乗客は降りて後押しをしたこともしばしばあったようだ。 乗客の後押し?! |
|
|
◆ この記述が記載ミスでないのなら、交通史に於ける希少な事例となる。これまでに僕は耳にタコが出来るほどバス押しの証言を授かっている。しかしながらその行為は戦争という極めて特殊な条件下で成された珍事で、石油枯渇によって半強制的に強いられた誰も望まない奇策である。 大東亜戦争時とその前後ではABCD包囲網によって、日本は石油の輸送ルートが完全に断たれていた。貨客輸送の主役が馬車から自動車に移行していた我が国にとって、石油に代わる代替エネルギーの運用は喫緊の課題であった。そこで軍が目を付けたのが木炭車である。 |
|
|
◆ 木炭車はガソリン車に比べて極めて非力である。いまだ北朝鮮では現役の木炭車が走っているらしいが、ガソリン価格が異常高騰にでもならない限り、資源国から普通に輸入すればいいだけの話だ。北朝鮮と違って当時の日本にはガソリンを買えるだけの財力はあった。しかし海上ルートは完全に封鎖されていた。 どうしよう?そうだ、木炭にしよう!鉄の塊であるSLを動かしてしまう石炭を燃料にするならまだ分かるが、木炭で車動くん?大方の日本人が素直にそう思った事だろう。しかし当時はそんな素朴な疑問を口にするだけで非国民扱いとなり、軍主導の政権の言うがままに従わざるを得なかった。 |
|
|
◆ これ登らんのちゃうん?皆がそう思っている。木炭車が坂に差し掛かった時、心の中では誰もが押しじゃね?乗客が押すっておかしくね?と思っている。しかしそれを口にしてはならない。乗客の男連中は黙ってバスを押すしかなかった。 戦時中という特殊な条件下ではそれが当たり前だったし、当時はそげな行為は日常茶飯事である。しかし鎧乢の場合は開通当初とあり、ガソリン統制のない大正年間に乗合自動車の押しがあったというのは極めて異例であると言わざるを得ない。 鎧乢5へ進む 鎧乢3へ戻る |