教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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出雲乢(6)

★★★

出雲乢(いずもたわ)の取扱説明書

出雲乢、その名称から想像するのは唯一つ、出雲街道の難所にして最大の障壁であるが、その名が市販の地図に刷られるのは稀で、我らがバイブルツーリングマップルでは有史来記載された例は一度も無い。何故なら肝心の峠そのものが存在しないからだ。現場に峠らしきものが認められないから、そこに出雲乢と記載すると意味不明で混乱する。従ってマップルの判断は頗る正しい。しかし現地では聞き取りに応じてくれた古老の全てが出雲乢と言い切った。そこが峠でも何でもないのにだ。始めは地名を疑った。出雲乢とは単なる地名ではないのかと。しかし名称に乢とある以上、出雲乢が峠由来である可能性を否定出来ない。峠無き有名無実の出雲乢、一筋縄とはいかないが、この難題に取り組む価値はありそうだ。当報告書は既知の峠を調べるのではなく、峠か否かを査定する踏査考察記である。

 

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◆低山の麓を忠実になぞる津山真加部街道筋

現在の東京の様子からは想像も付かないが、江戸は運河等の水路が張り巡らされた水の都であった。移動手段としての舟便が成立し、駕籠と舟は長らくライバル関係にあった。その両者をたったの1年で葬り去ったのが人力車で、圧倒的な機動力の前に旧来の乗物は成す術がなかった。

江戸学の権威、三田村鳶魚は語る。近年稀にみる交通インフラの交代劇は、瞬く間の出来事であったと。ボディブローのように何年もかけてじわりじわりと効いてくるのではなく、一発で致命傷となるまさにノックアウトのようなもので、従来の交通インフラは長い歴史からみたら秒殺に等しい憂き目に遭った。

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◆街道筋では希な田畑を二分する直線路

江戸の瞬殺劇が地方にそっくりそのまま当て嵌まるのかという意見もあろう。しかし人力車の普及が最も遅れていた島根県でさえ、明治6年の時点で県令の嘆き節が聞こえてくる事実を、我々はどう解釈すればよいのだろうか?新道の成立を車両の起源とするのは、素人に説くには何かと都合がいい。

従来の江戸道とは一線を画す新道の開設に伴い、馬車も荷車も人力車も行き来出来るようになったと説明された方が理解し易い。しかし明治元年にいきなり丁髷やお歯黒を止めた訳ではないし、和食から洋食に唐突に切り替わった訳でもない。江戸時代の慣習は段階的に改められていったという経緯がある。

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◆県道67号線よりも交通量大の市道との交点

明治維新は慶応3年の大政奉還と王政復古に端を発するのは大勢で一致するが、その終わりがどこかはいまだ意見が分かれるところで、明治4年の廃藩置県、西南戦争が収束する明治10年、内閣制度が発足する明治18年、大日本帝国憲法が発布され立憲体制が確立される明治22年と様々だ。

世の中の全てがひっくり返るガラガラポンのカオスであるから、伊藤博文が国のトップに落ち着くまでの空白の期間、世の中を治めた人物をラッスンゴレライとした方がすっきりとしていて、徳川慶喜⇒ラッスンゴレライ⇒伊藤博文とする事で、複雑怪奇な明治維新は誰でもすんなりと消化出来るようになる。

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◆街道筋は十字路の先で右斜め45度に舵を切る

しかし何事も理路整然としている訳でない事くらい人生経験を積めば誰でも分かる。勝者の理論や大人の事情によって幾らでも歴史は塗り替える事が出来てしまう。考えてもみてほしい。新道の成立以前に車両が好き勝手に行き来していたとなると、明治新政府並びに地域行政の面子は丸潰れである。

叶うなら新道の敷設によって車両が行き来出来るようになった事にしたい。新政府及びその息がかかる県令の手柄としたい。しかし民間が残した記録に裏打ちされる事実は揺るがない。官主導の馬車道が成立する十余年も前に、人力車が縦横無尽に疾走していたのだ。その事例は県内だけでも枚挙に暇がない。

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◆右斜めのカーブ直後に左へ90度折れ曲がる街道筋

明治一桁の時点で人力車を駆使した役人の県庁参りが盛んに行われた。明治黎明期の廃藩置県で津山藩は津山県へと改称されたが、同年により広域を統括する北条県が誕生する。その際県庁所在地となったのが津山城で、初代北条県令には淵辺群平が就任している。

当時の岡山城下周辺に点在する村々の御偉方が、県令の顔色を窺いにせっせと岡山県庁へ通い詰めたように、ここ美作も役人の県庁詣が盛んに行われたであろう事は想像に難くない。多少の起伏はどこも似たり寄ったりで、道中に障害物が皆無である事の方が稀である。

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◆田畑を割る直線路で次なる低山の麓へと取り付く

実際に明治一桁の時点で御偉方を乗せた人力車は、江戸道に若干手を加えたに過ぎない街道筋を辿り、急坂は馬の鼻曳きや車夫達による二人引き、また後ろからの押しも加えた三人引き等で対処し、川では小舟に人力車を丸ごと載せる形で県庁参りを成立させたという経緯がある。

岡山市内に人力車が現れたのは明治4年で、津山に入ったのは明治5年と両者のタイムラグはたった1年である。県南と県央県北で多少の違いはあるのかも知れないが、起伏に富んだ低山が連なる地形という点で決定的な乖離は認められず、むしろ地形に関しては岡山全域どこも大差ない。

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◆一昔前に比し幅員が倍加しているという1.5車線区

唯一の例外は高低差のある中央分水嶺で、そこだけは車道の敷設に手古摺ったであろうが、我々は物見峠で明治9年に車道の灯が燈った事実を知ってしまった。だとすれば明治一桁の津山界隈の県庁参りが行われていないというのは妙だ。

当時の時代背景や交通事情から推察して、人力車に乗った御偉方がこの界隈を日常的に行き来していたのはほぼ間違いない。彼等はどこをどう伝ったのか?国道429号線から見て低山の南麓を伝うこの狭隘路、即ち津山真加部街道である。

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