教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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物見峠(17)

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物見峠(ものみとうげ)の取扱説明書

美作の県北域に県界を跨ぐ第五の車道を捉えるまでは、四天王の一角を成しそれなりの重責を担った峠道がある。現在は市町村道に区分される車両の通行を許す里道の峠が皆無という特殊なエリアで、日中の交通量がほとんど無いに等しいにも拘らず、主要一桁県道というポストに君臨し続ける路線、それが物見峠だ。我々はこの峠について何も知らないし、さして興味を抱く事もなかった。旧廃道でなければ道路に非ず、その拘りが当該物件を遠避けてきた。しかしこの峠を軽く扱えるのも今日までだ。この峠道無くして今日の黒尾峠は成立し得なかったし、物見峠を無視してこの界隈の交通事情は語れない。黒尾峠から始まる峠物語は右手峠と草の原峠を経ていよいよ最終章を迎える。道路の現況に囚われない歴史道の真髄を御覧頂こう。

 

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◆市販の地図に反映された昭和41年現在の勢力図

全国乗合自動車総覧(昭和九年)によると、同年までに設立・営業に及んでいる県北の乗合バスで、加茂町域を営業した乗合バスでは、陰陽連絡乗合自動車があった。

陰陽連絡乗合自動車

これだ、これがその当時唯一当地域の中央分水嶺を跨いだとされる伝説の路線バスで、わざわざ路線名に陰陽と銘打っている事から、当界隈で唯一無二の存在である事を旅客に訴えるには十分なインパクトがある。

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◆何故か物見峠だけが特別扱いされている

陰陽連絡乗合自動車(代表桑原奥野義夫)は昭和三年の美作加茂駅開業とともに、当時の因美線山陰側の終着駅である智頭駅と美作加茂駅とを連絡する目的をもって設立された。

物見峠越えのバスは昭和3年に運用開始

当界隈に於ける昭和3年現在の中央分水嶺に道路隧道は皆無で、どの峠道も直に鞍を跨ぐ難コースという中にあって、唯一旅客営業を果たした物見峠が、頭ひとつ抜きん出ていた事実を疑う余地はない。

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◆昭和44年に撮影された改修以前の物見峠

陰陽連絡乗合自動車は美作加茂駅−小中原−知和−物見−夏明−智頭駅の二駅間を、六人乗りホイペット(イギリス製、当時の新車価格は一六七五円)で一日三往復した。

加茂駅⇔智頭駅間を1日3往復

昭和3年の時点で因美南線が津山から加茂まで延伸開業し、因美北線が鳥取から智頭まで先行開業していた事から、未成区となる物見峠の前後を当面の間バス輸送で凌ぐ作戦で、物見峠越えのバスは単なるローカル路線バスではなかった。

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◆峠の案内板には行き先に何故か姫路と刷られている

ここに一枚の古写真がある。晩年を出雲街道の掘り下げに心血を注いだ小谷善守氏が収めた昭和40年代の物見峠で、通称白看と称されるローマ字を配した旧タイプの標識がズラリと並ぶ。その中に無視出来ない行き先が躍っている。

姫路 HIMEJI 110km

写真の標識は鳥取県側からやって来た者に対する案内であるが、直近の津山とその先に待つ岡山は良しとして、方角的には倉敷や福山が妥当と思える目的地に、あろう事か姫路と刷られているのである。

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◆拡幅過程を捉えた写真に映る旧態依然とした狭隘山道

昭和40年代と言えば志戸坂隧道がすっかり脂が乗っている時分で、鳥取市内及び智頭から山陽方面を捉えた場合、姫路を目指すとなるとほぼ間違いなく志戸坂峠を目指すはず。それもトンネルにて一瞬で難所を克服出来るのだから、志戸坂に矛先を向けない方がどうかしている。

鳥取側から見て南東方面へ赴くのにわざわざ一旦南西へ舵を切り、どこかのタイミングでくるりと反転して姫路を目指す者など果たしているだろうか?と考えた時、皆無ではない事に気付かされる。道路だけで言えば有り得ない話だが、鉄道と絡めてみると何となく頷ける。キーマンは津山と姫路を結ぶ姫新線だ。

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◆開閉式に見えなくもない今は亡き先代の軒戸橋

今でこそ鳥取と姫路を結ぶのは智頭急行と相場が決まっているけれど、平成元年まではJRの因美線と姫新線を直通する急行みささが主役を張っていた。従って姫路を目指すのに一旦津山へ出るのも選択肢ではあったと思われ、昭和50年に開業した中国自動車道の津山インター経由というのも有り得る話だ。

智頭急行に続き鳥取自動車道まで全通した今では想像し難いが、山陰と関西方面を行き来するのに津山を経由した時代があり、インフラ整備が不十分な陸上交通の黎明期には、黒尾峠や志戸坂峠を差し置いて物見峠が主役を張った時代が確かに存在したのだ。

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◆奥野義夫氏と物見峠を越えた陰陽連絡乗合自動車

それは昭和初期のたった数年の些細な出来事ではあるけれど、因美線最大の障壁となる物見峠を含む第五工区が全通する昭和7年まで、奥野氏率いる自動車会社が当界隈初となる中央分水嶺越えの公共交通機関の先鞭を付けたのである。

奥野氏の実績は称えられて然るべきであり、我が国の交通史に残る功績と言っても過言ではない。しかしそれよりも前に物見峠に公共交通機関の灯を燈した者がいるとしたら、我々はその史実から目を逸らす訳にはいかない。

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