教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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物見峠(18)

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物見峠(ものみとうげ)の取扱説明書

美作の県北域に県界を跨ぐ第五の車道を捉えるまでは、四天王の一角を成しそれなりの重責を担った峠道がある。現在は市町村道に区分される車両の通行を許す里道の峠が皆無という特殊なエリアで、日中の交通量がほとんど無いに等しいにも拘らず、主要一桁県道というポストに君臨し続ける路線、それが物見峠だ。我々はこの峠について何も知らないし、さして興味を抱く事もなかった。旧廃道でなければ道路に非ず、その拘りが当該物件を遠避けてきた。しかしこの峠を軽く扱えるのも今日までだ。この峠道無くして今日の黒尾峠は成立し得なかったし、物見峠を無視してこの界隈の交通事情は語れない。黒尾峠から始まる峠物語は右手峠と草の原峠を経ていよいよ最終章を迎える。道路の現況に囚われない歴史道の真髄を御覧頂こう。

 

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◆完成当時の因美線物見隧道岡山側坑口の全景

むかしはこの峠すこぶる峻嶮にして、車馬の通行あたわざりしが、明治七年物見村の北村嘉平なる者、約二年間峠の開さくに従事せり。かくてようやく車馬の通行を見るにいたらしめたり。

明治9年物見峠に車馬が闊歩

この時代の車馬とは最大級でも人力車とみて間違いない。明治5年には鳥取に人力車が疾走している事から、分水嶺を跨ぐ待望の車道の登場である。だが真っ当な車道の敷設は明治15年まで待たねばならない。

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◆物見付近の県道を走る鉄道建設資材を運搬する荷馬車

北村嘉平が拓いたとされる明治9年の車道開削費は自費で、車道と呼ぶには些か物足りず、かといって人畜のみが有効の旧態依然とした江戸道とは一線を画す路で、帯に短し襷に長しの中途半端な路線であったようだ。そこに明治15年、行政が関与する。所謂物見越え二期改修工事である。

明治18年に鳥取−智頭間の智頭往来が刷新されている事から、それと前後する峠道の改修が馬車道規格への引き上げと見做すのが妥当で、明治20年代初頭に鳥取⇔智頭間に乗合馬車が運行されている事実を踏まえれば、明治年間に物見越えの乗合馬車が走っていてもおかしくはない。

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◆明治20年代に於ける陰陽連絡線黎明期の経路図

私が小学校四年のころ(大正初期)には、物見から智頭へ馬車が盛んに通っていた。馬車を引く人が四、五人いて、智頭へ木炭や木材を運んでいた。馬車がバスのようなもので人も乗っていた。

馬車に人が乗っていた!

明治末から大正にかけて小中原の江田一平・桑原の中田真助の両名は乗合馬車の営業を、さらに東加茂村の亀川柳助・児玉今五郎は運送業を営んでいた。

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◆峠の前後まで公共交通機関が通じる大正年間の経路図

物見峠に定期乗合馬車が往来したという記録は見当たらない。しかしそれらしきものをイメージさせる古老談話や史実が各種文献に散見され、荷を下ろした空車に人を乗せる白タクならぬ白馬車の存在と、営業区間の曖昧な客馬車が明治黎明期に峠を含むその前後を疾走していた様子が見受けられる。

それらの記述は明治40年に実施された物見峠第三次改修とリンクする。明治20年代初頭には鳥取−智頭間に客馬車が走っているが、その時分の峠道はどこも人力車の往来が関の山で、徒歩以外の中央分水嶺越えは人力車に頼る他なかった。だが智頭での乗継が解消される日がやってくる。

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◆智頭駅開業に伴い乗合バスが往来したであろう想像図

それが明治40年の物見峠三次改修に伴う馬車便の設定で、結構な頻度で荷馬車に相乗りする人々を目の当たりにすれば、峠越えの馬車営業を思い付く者が現れても何等不思議でない。記録に残るものでは大正6年に鳥取⇔智頭、同11年に津山⇔知和の乗合自動車営業が認められる。

昭和3年にいきなり中央分水嶺越えの自動車営業を開始というのはどうも腑に落ちず、明治の最晩期に乗合馬車が物見峠に公共交通機関の先鞭を付ける前例があっての運行と思われ、そういう意味で明治40年の改修は来る自動車時代の到来を予見したものであったのではなかろうか。

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◆因美線の未成区を結ぶ連絡自動車輸送時代の経路図

公式記録には残らぬがどんなに遅くとも大正12年には乗合自動車が物見峠を越えている。何故なら省営鉄道の智頭線が開業するからだ。早晩昭和3年には陰陽連絡と銘打った乗合自動車が疾走する訳で、その当時はドル箱路線と称された智頭線に連絡する公共交通機関が設定されない事の方が不自然だ。

加茂で乗り継ぐ或いは智頭から津山へ直行する乗合馬車や乗合自動車が存在したとの解釈が妥当と僕は考える。MONOMI Toge Passに秘められし過去の歴史に於いて、最後の最後に黒尾峠及び奈義ループ橋に関する工事誌の中に、工事関係者のトンデモ証言を見付けてしまった。

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◆国道予定線の選択肢に挙がっていた幻の物見越えルート

トンネル掘削は物見峠でもよかった

物見から鳥取越えは金山越えがいちばん近い。昭和十年ごろまで牛も越えていた。因美線が出来てから通る人がいなくなった。この谷にトンネルを通し県道を新しく作ろうという話が持ち上がり測量までしたこともあるが実現しなかった。

あの日、黒尾峠を指差す若かりし日のジャニー喜多川氏のYOUやっちゃいなよ!が物見峠と黒尾峠の命運を分けた一番の決め手であると僕は信じて止まない。

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