教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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物見峠(4)

★★★

物見峠(ものみとうげ)の取扱説明書

美作の県北域に県界を跨ぐ第五の車道を捉えるまでは、四天王の一角を成しそれなりの重責を担った峠道がある。現在は市町村道に区分される車両の通行を許す里道の峠が皆無という特殊なエリアで、日中の交通量がほとんど無いに等しいにも拘らず、主要一桁県道というポストに君臨し続ける路線、それが物見峠だ。我々はこの峠について何も知らないし、さして興味を抱く事もなかった。旧廃道でなければ道路に非ず、その拘りが当該物件を遠避けてきた。しかしこの峠を軽く扱えるのも今日までだ。この峠道無くして今日の黒尾峠は成立し得なかったし、物見峠を無視してこの界隈の交通事情は語れない。黒尾峠から始まる峠物語は右手峠と草の原峠を経ていよいよ最終章を迎える。道路の現況に囚われない歴史道の真髄を御覧頂こう。

 

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◆掘坂の北側の新旧道交点を最後に旧道は鳴りを潜める

村名が掘坂というくらいであるから、古来加茂川の上下を二分する丘のような障害が立ちはだかっていたのだろう。そこに最初の風穴を開けたのが江戸後期の水路隧道で、それに道路の掘割と鉄道の切り通しが追随し、最後は県道のバイパスがトンネルで締める形となった。

一連の案件は用途こそ異なるものの、障害を克服するという点で一致する。江戸時代は山塊のどこかをいちいち上り下りしていたのだろう。人畜のみが有効の小径がどこかに眠っているはずである。効率だけを考えれば水路隧道に加え道路隧道も同時並行的に掘削すべきである。

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◆美作加茂駅へ通じる旧道は自販機裏手の1.5車線路

そうすれば利便性は飛躍的に高まる。田畑に水を引くのも大事だが、重量物を背負った人畜が丘状の起伏を上り下りするのも相当堪えるから、もう一年かけてでも道路隧道を掘り抜くべきであった。しかし時代がそれを許さなかった。技術的には十分な掘削レベルにあった事は疑う余地がない。

200年間稼働し続ける暗渠がその証左だ。しかし幕府がそれを許さなかった。道路隧道は必要無し、これが当時の政府見解である。しかし中には青の洞門や川原隧道といった例外があるから、必要とあらば藩のゴリ押しで開削も出来たはずだが、実際にそれは履行されなかった。

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◆路線バスは今でも美作加茂駅前を通る旧道を経由

現代のように情報が瞬時に不特定多数へ伝播するのであれば、他藩に道路隧道が存在する事を理由に第二の穴の掘削を推進出来たかも知れないが、実際にそれは叶わなかった。明治になって車道を付ける際に隧道ではなく掘割で処理しているので、掘坂に道路トンネルが成立した可能性は限りなく低い。

それでも人畜の通行を許す規模の水路隧道は、江戸後期に既に道路隧道が確立されていた事を示唆する重要な物証であり、荷車や人力車の通行を許す車道隧道の敷設可能性がゼロではなく、実行に移そうと思えばいつでも履行出来る技術力を備えていたという点で、掘坂暗渠の存在意義は大きい。

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◆装飾が簡素になった昭和30年代のコンクリ橋

因美線は昭和3年の春に津山⇔美作加茂間が先行開業しているので、掘坂の切り通しはほぼ間違いなくダイナマイトで粉砕したと思われるが、鉄道の開発自体は大正年間から行われているので、大正の掘割と見て良かろう。それ以前から供用されている旧県道の掘割は当然の如し手掘りと推察される。

後年の拡張時は兎も角、開削当初の掘割は手作業であった可能性が大である。最後発の掘坂トンネルが昭和49年の成立であるから、江戸時代の水路隧道、明治の道路掘割、大正の鉄道掘割、昭和の道路トンネルと歴代の土木構造物が並列している点で、掘坂を単なる通過点と捉えるのは非常に勿体無い。

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◆モダンな美作加茂駅と閑散とする駅前商店街

道路の掘割と道路のトンネルという風に物事を点で捉えると単なる新旧道の比較で終わってしまうが、並列する線として捉えた場合、全く違った風景が見えてくる。美作加茂駅の正面を通過する旧道筋もそのひとつで、今では閑散としている駅前も過去の経緯を知る事で違った一面が垣間見える。

現在の駅舎は平成15年に建て替えられ随分と小奇麗であるが、大正モダンの洋風仕立ては開業当初のデザインを継承しているのかも知れない。昭和元年が事実上一週間もない点を踏まえれば、昭和3年3月開業の駅舎は大正時代の建築様式が色濃く反映されたものであっても何等不思議でない。

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◆鉄路の東側を伝う旧道より背後に朱色の軒戸橋を捉える

その当時は美作加茂駅が起終点であり、鉄道の開業に村々は沸き立っていたであろうから、駅前商店街も随分と活気に満ち溢れていたに違いない。今ではシャッターが降りたままの沈黙する商店街と化しているが、一番列車が滑り込んで来た際の盛況ぶりは半端でなかったはず。

駅前通りはどこも普通車同士の擦れ違いを許す潤沢な仕様で、山から積み出した薪や炭などの物資を満載した馬車やトラックが激しく行き交い、荷物を貨車に積み替えていた賑やかな様子が目に浮かぶ。駅舎の開業時は丁度馬車とトラックの世代交代時期に重なる。

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◆錆び錆びのガードレールに色褪せた警戒標識

大正年間の前半に幅を利かせた馬車も、後期に出現するトラックに活躍の場を奪われ、昭和一桁の時点で馬車業の多くが廃業に追い込まれる。非効率なものが表舞台からの退場を余儀なくされ、やがて駆逐されるのはいつの世も同じだ。

美作加茂駅を過ぎると錆び錆びのガードレールと色褪せた警戒標識が出迎えてくれる。この道も後発のバイパスに主役を座を追われた敗者で、あらゆる道路付帯設備が老朽化した旧道は、悲しいかな元県道とは思えぬ醜態を晒している。

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