|
教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
|
|
トップ>里道>岡山>草の原峠 |
|
|
草の原峠(6) ★ |
|
|
草の原峠(くさのはらとうげ)の取扱説明書 美作の県北域に第五の中央分水嶺越えの車道が存在する。その現実を知って直ちに消化する事が出来るであろうか?正直僕はそのルートを頭ごなしに否定した。疑いではなく完全否定である。拒絶と言った方が正しいかも知れない。だってだってだよ、現場付近には何度も何度も何度も何度も足を運んでいて、中央分水嶺を跨ぐ車道の敷設がいかに難事業であるのかを曲りなりにも知っている身としては、第五の車道の存在などそう簡単に認める訳にはいかない。しかし志戸坂・黒尾・物見・右手に次ぐ第五の車道は確かに実在した。この僕をヘナリワンと共に県界越えを果たさせたのだから本物だ。何だか狐に摘ままれたような話だが、実際に峠を越えてしまったのだから覆し様がない。陰陽を隔てる障壁に風穴を開けた第五の矢はいかなる峠道なのか?知られざる峠の謎解きに挑んだ事の一部始終を御覧頂こう。 |
|
|
|
◆平成一桁は人を寄せ付けなかった過去がある道の現状 昭和50年頃には既に車両の通行を許す車道の峠道が存在したという地元民の証言と、古地図に記載される謎の峠道が見事に重なった。その道は平成12年の改良工事を受けるまで、車両はおろか歩行者の通行でさえ容易でない事実上の廃道として、人知れず県北の山中に息を潜めていた。 僕が矢ノ川峠や万世大路といった全国区の大物を摘み喰いしていた時分に、草の原峠の存在を知り得ていたならば、失われた廃道という面白い企画になっていたであろう。たった数枚しかない貴重なアナログ写真を交えながら、当時の逝かれっぷりを振り返る回想シーンてんこ盛りレポの出来上がりだ。 |
|
|
◆視界が開けた所でススキに覆われた廃公園が現れる すっかり小奇麗に改装されてしまった今となってはどうにもならないが、それでも村人の証言によりある程度の状況が把握され、古地図に二重線で描かれる車道らしき峠道が、その当時実際に存在したという裏付けがあっての調査は、単なる林道を走破したのとは訳が違う。 人々は昭和50年代に入っても相変わらず江戸時代と変わらぬルートを辿り、新設車道には見向きもしなかった。その利便性を考慮して開削された新道を日常的に行き来する者は無く、また竣成後は人の手が入るでも無く、荒れるに任せた結果廃道となった。生ける古道と廃れた新道、この矛盾が堪らない。 |
|
|
◆公園の片隅に掲げられた案内板にふるさと林道とある 鳥取県側の真鹿野集落に滑り込む直前に、林道の改良工事の際に設けられたと思われる公園がある。全体がススキの群生に覆われパッと見は草原のようにしか見えないが、ブランコや東屋が見え隠れしているので、辛うじてそこが公園である事が理解出来る。 その正面には案内板が設置され、林道の全体像が描かれている。国道53号線の真鹿野と県道7号線の立木を結ぶ赤い線は、まさに古地図に描かれる二重線の経路そのもので、たった今僕が走破した舗装林道が一度は廃道化した路を立て直したものである事が分かる。 |
|
|
◆真鹿野集落の直前で鹿避けの柵が行く手を阻む 案内板では峠道がふるさと林道と銘打たれており、路線名は林道草原津谷線となっている。着地点は真鹿野という集落で草原という地名は認められない。本来であれば路線名は真鹿野津谷線とすべきだが実はそれも筋が通っておらず、岡山県側の津谷とは地名ではなく河川名を指している。 岡山県側の起終点は本来立木か右手とするのが妥当であるが、何故か山道に並走する河川名が冠されているのだ。ならば鳥取県側も並走する河川名である真鹿野を命名し、林道真鹿野津谷線とすればしっくりとくるが、実際の路線名は峠名+河川名となっている。それは今に始まった事ではない。 |
|
|
◆ゲート脇には古道らしさが垣間見える石灯篭が佇む 峠には朽ちた林道標柱が道路脇に佇んでいて、そこにも林道草原津谷線と記されているのである。その草臥れ具合から標柱は平成12年の改修以前のもの、つまり車道が開設された際に設置された可能性が大である。昭和50年代に拓かれた林道でよく見掛けるタイプの標柱であるから間違いない。 平成産の林道はスチール製の支柱と鉄板を組み合わせたがっちりとした案内板が設置されるが、それ以前の林道だと木製の標柱一本で済ませている事が多い。旧式の草臥れた標柱が廃道時代の置き土産ともとれるが、もしもそうであるならば新道は開削時から林道として産声を上げた事になる。 |
|
|
◆真鹿野集落を貫通する狭い谷を直線的に滑り降りる 勿論新設された車道と古来供用されていた古道筋が無関係でない事は、両者が辿る経路からも草の原峠で互いが交わっている点でも、また車道の路線名からしても明らかだ。わざわざ林道に草の原という峠名を冠したのは、従来の徒歩道に代わる道ですよと行政がアピールしたかったからではなかろうか。 古文書にも認められるクサノハラを用いる事で新道をPRし、旧道からの自然な移行が成されるのを期待したのではないか。ところが蓋を開けてみれば人々は旧態依然とした江戸道を伝い、自身の足で上り下りする事を苦にしなかったばかりか、多額の税金を投入して敷設した新道を完全にスルーした。 |
|
|
◆石灯篭と道標がかつての重要な交点であると示唆 これでは行政の面目丸潰れである。利便性を高める為にわざわざ切り拓いた峠道が、ほとんど使われずに朽ち行くのだから堪ったものではない。しかし強制移行させる訳にもいかないし、通行量皆無の道を維持管理するのも大変だ。 結局放置プレイという選択をせざるを得なかった。これが草の原新道が一度は廃道化への道を辿った理由ではないのか。だとすればそうせざるを得なくなった最大の要因は何なのか?黒尾峠だ。対抗馬が余りにも強過ぎた。この一点に尽きる。 草の原峠7へ進む 草の原峠5へ戻る |