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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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草の原峠(7) ★ |
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草の原峠(くさのはらとうげ)の取扱説明書 美作の県北域に第五の中央分水嶺越えの車道が存在する。その現実を知って直ちに消化する事が出来るであろうか?正直僕はそのルートを頭ごなしに否定した。疑いではなく完全否定である。拒絶と言った方が正しいかも知れない。だってだってだよ、現場付近には何度も何度も何度も何度も足を運んでいて、中央分水嶺を跨ぐ車道の敷設がいかに難事業であるのかを曲りなりにも知っている身としては、第五の車道の存在などそう簡単に認める訳にはいかない。しかし志戸坂・黒尾・物見・右手に次ぐ第五の車道は確かに実在した。この僕をヘナリワンと共に県界越えを果たさせたのだから本物だ。何だか狐に摘ままれたような話だが、実際に峠を越えてしまったのだから覆し様がない。陰陽を隔てる障壁に風穴を開けた第五の矢はいかなる峠道なのか?知られざる峠の謎解きに挑んだ事の一部始終を御覧頂こう。 |
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◆左かじなみ右つやまと彫刻された真鹿野集落の道標 黒尾峠VS草の原峠 真鹿野集落内には左かじなみ、右つやまと掘り込まれた道標が認められる。直接的な繋がりのある梶並は当然としても、何故このような僻地で行き先に津山と刻まれているのか不思議でならなかった。 しかしよくよく考えてみれば国道53号線の旧道も現国道も若干西に膨らんでいて、無駄に距離を稼いでいる。智頭からみて最短距離で峠を越そうと思えば、真鹿野から直線的に上り詰める方が理に適っている。 |
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◆徒歩通行時代は黒尾峠越えの着地点であった真鹿野 等高線を無視した最短コースが常識であった時代なら尚更で、江戸時代の黒尾峠越え、即ち国道53号線の旧旧道が真鹿野経由であったとすれば辻褄が合う。現在の奥本を経由する新世代の路に対し、古代の路は真鹿野を通っていた。そうであれば“右つやま”と記された道標に違和感はない。 真鹿野川の源流点と馬桑川の源流点を繋ぐ最短コース、恐らくそれが明治初期まで使われた備前街道筋に違いない。となると真鹿野集落は備前街道と梶並往来の脇街道が交わる交通の要衝と捉える事が出来る。今でこそ唯の一限界集落に過ぎないが、かつての真鹿野は津山・美作への玄関口であったのだ。 |
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◆真鹿野川を跨ぎ国道53号線にぶつかる草の原新道 明治10年代末に奥本を経由する馬車道の新設により、真鹿野は智頭宿と梶並宿を結ぶだけのローカル線に成り果てたが、それでも中原宿を経由する右手峠経由に比し距離的に優位で、その事は昭和50年代に入っても尚草の原峠の旧道を人々は行き来していたという証言からも頷ける。 智頭⇔梶並間に的を絞れば草の原峠の優位性は揺るがない。智頭の長者が多額の資金を投じて峠の岡山寄りに安置した巨大な石地蔵は、草の原峠への期待値が反映されたものと見てよかろう。そいつは右手峠に鎮座する地蔵のそれを凌駕するもので、草の原峠が必要不可欠な生命線であった事を物語る。 |
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◆一時代前の終点は現国道筋を突っ切った先にある 明治10年代まで真鹿野に津山方面と繋がる備前街道が通じていた。これは単なる偶然でもなければ、無理矢理繋げた訳でもない。真鹿野を鳥取県側の着地点となる峠下と位置付ける事、それは陸路よりも海路を重んじた幕府の政策に起因する江戸年間の地政学的必然であった。 鳥取自動車道の智頭南ICに智頭急行の山里駅がある今でこそ右手峠に軍配が上がるが、一時代前はトンネル経由の高規格道路に生まれ変わった国道53号線の黒尾新道及び因美線の那岐駅に通じる草の原峠が優位で、実際に昭和50年代に入っても人々は峠を徒歩で越し公共交通機関を利用した。 |
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◆国道53号線旧道筋と草の原古道が交わるT字路 旧右手村の住人にとって鳥取市内へ行くにも津山へ出るにも那岐駅を利用するのが最適で、本来であれば右手と那岐駅を結ぶ峠越えの車道は歓迎されてしかるべきで、開設時期もマイカーを所有し出す時分に重なり、そこそこの需要は見込めるはずであった。しかし実際にそうはならなかった。 1968年の地図では草の原峠を越す二重線が既に描かれていて、経路上には複数のXが記されている。それが1970年になるとXが解消されている。前者が工事中で後者が供用中と見做すのが妥当だ。紙面に反映されるタイムラグを考慮すれば、1968年もしくは1969年の開設との見方が成り立つ。 |
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◆草の原峠の道筋にX印が付く1968年の道路地図 丁度その頃に起こった当界隈の交通事情を一変させる一大事の影響は無視出来ない。黒尾峠に風穴が開いたのだ。片やトンネルを含む舗装された二車線の快走路で、片や幅2m前後の狭隘未舗装山道であるから、同じ新規開設路線であっても全く比べ物にならない。 こうしてほぼ同時期に開設された二つの峠道は、片や陰陽連絡線の本命として大々的なニュースと共に迎え入れられ、片や地元民にも使えない路と烙印を押され廃道化への道を辿る。巨大プロジェクトの陰に隠れひっそりとこの世に生を授かり、放置プレイの果てにその存在さえも否定された悲運の峠、草の原。 |
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◆草の原峠からX印が消えた1970年の道路地図 かつては同じ徒歩道サイズの小径で袂を分かち合った両者は、この一世紀で如何ともし難い乖離が生じた。昭和の新道対決に見る廃道化した山道と市民権を得た快走路の決定的な差は、甲子園で激闘を演じたハンカチ王子とマー君の今に似ている。 草の原峠から見て黒尾峠は雲の上の存在だ。ただ右手峠との比較で距離的な優位性は揺るがない。草の原峠が再評価される時、それは今日現在点線表記となっているツーリングマップルで実線表記される時、即ち第五の車道峠がベールを脱ぐ時で、その際には通行者に支持されるものと僕は確信している。 草の原峠6へ戻る |