教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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草の原峠(5)

草の原峠(くさのはらとうげ)の取扱説明書

美作の県北域に第五の中央分水嶺越えの車道が存在する。その現実を知って直ちに消化する事が出来るであろうか?正直僕はそのルートを頭ごなしに否定した。疑いではなく完全否定である。拒絶と言った方が正しいかも知れない。だってだってだよ、現場付近には何度も何度も何度も何度も足を運んでいて、中央分水嶺を跨ぐ車道の敷設がいかに難事業であるのかを曲りなりにも知っている身としては、第五の車道の存在などそう簡単に認める訳にはいかない。しかし志戸坂・黒尾・物見・右手に次ぐ第五の車道は確かに実在した。この僕をヘナリワンと共に県界越えを果たさせたのだから本物だ。何だか狐に摘ままれたような話だが、実際に峠を越えてしまったのだから覆し様がない。陰陽を隔てる障壁に風穴を開けた第五の矢はいかなる峠道なのか?知られざる峠の謎解きに挑んだ事の一部始終を御覧頂こう。

 

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◆一時は廃道化した山道はすっかり見違えっている

草の原峠に廃車道アリ

真鹿野のおいちゃんから齎された衝撃発言は、この僕を酷く驚かせた。今から15年前というと、道路特異点の全国網羅構想を練っていた時分である。その頃に車道規格の廃道が存在したというのだから、驚かない方がどうかしている。

この界隈では志戸坂峠と黒尾峠の旧道が廃道としては有名だが、その両雄に負けず劣らずの廃道が実在した、しかも一般にはその存在自体がほとんど知られていない幻の車道というのだから、マニアック目線で希少価値大の美味しい路線だ。

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◆車道は無駄に距離を稼ぐが古道筋は斜面を直登する

人は伝説や幻という言葉に弱い。通常はどうでもいい750円の味噌ラーメンが、幻の味噌ラーメンと銘打たれているだけで1000円払っても惜しくないと考えるし、普段は買わない雑誌でも伝説のアイドルが遂に脱いだ!との謳い文句があるだけで、袋綴じの中身にそそられついつい買ってしまう事がある。

いつ行っても変わらぬ廃道というのは、安定的に供給される定番ラーメン同様強烈な印象は最初だけで、二度目以降は見慣れてしまいそこに新鮮さはない。しかし期間限定であるとか二度と拝めないとなると、プレミアム感は飛躍的に高まる。勿論ここ草の原峠は後者に属する。

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◆松林に囲まれた気分の良い道程で緩やかに降下する

今我々が容易く行き来出来る山道は、単なる在り来たりな舗装林道に過ぎない。しかしそれは今から遡る事15年程前までは、車両はおろか人でさえも寄せ付けない踏破困難な廃道であったという。その存在はこの界隈に点在する物件では頭一つ抜けた奇異な車道であった事を疑う余地はない。

この辺りの中央分水嶺を跨ぐ車道峠は一通り経験済で、路上に真っ当な大木が生えている物件で顕著なのは、幻の国道と呼ばれる明地峠くらいのものだ。おいちゃん談から見えてくるのはまさのそれに比肩するレベルの廃道で、単車での踏破が限りなく困難な鬼のような廃道を想像させる。

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◆廃道から脱却するきっかけとなった関電の送電線

そんな筋金入りの廃道が僅か15年程前まで平然と存在したというのだから恐れ入る。直近の地域住民以外誰も知らない峠越えの車道にして、その存在自体を否定されたかのような樹海に埋もれし廃車道は、幸か不幸か関電の息が掛り林道として蘇る。送電線の保守点検路として指名されたのだ。

表向きは美作市と智頭町が管理する一般林道であるが、道路整備に関電が一役買っているのは間違いなく、その証拠に地蔵移設は関電が引き受けている。拡大解釈をすれば草の原峠は地域住民の電力消費が齎した副産物と捉えられなくもない。電化製品による消費拡大が一本の廃道を蘇らせたのだ。

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◆所々に待避所も用意され四輪でも通行に支障はない

視界に映るありのままの林道を語っても面白くも何ともない。しかしこの峠道が辿った数奇な運命が全く違った魅せ方をする。僕は一般に語られる事のないその背景に心を鷲掴みにされた。特に廃道化した車道には見向きもせず、住民は粛々と旧態依然とした古道筋を辿っていた点だ。

おいちゃんの説明によると鳥取県側にしても岡山県側にしても、従来の路はほぼ直線的に山肌を上り下りしているのだという。その経路は江戸道特有の最短距離を重んじる線形そのものである。その古道筋に代わる現代規格の路が新造された。しかし誰一人そのコースを利用する者はなかった。

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◆廃道時代を彷彿とさせる枯れ枝葉の路上放置プレイ

答えは至極単純だ。実距離が長く不適と判断されたのだ。我々の感覚からすると多少距離が長くとも、歩くのに比べたらマシと長時間車に揺られる方を選択するであろう。その方が体力を温存でき楽でもあるからだ。しかし一時代前の人間はそうは考えなかった。少なくとも昭和の晩年までは。

おいちゃんは語る、昭和50年代は普通に歩いて峠を行き来していたのだと。時代が平成に変わる直前まで人々は草の原峠を自身の足だけを頼りに上り下りしていたという。その当時は既に車道規格の新道があったにも拘らず、江戸由来の最短コースを利用したのだ。その道は今藪に埋もれて久しい。

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◆曲率半径30mのヘアピンも馬車道らしは感じられない

1970年代の道路地図に二重線で描かれる草の原峠越えの車道、まさにそれが有名無実の新道であり、地図会社が期待値を込めて繋げたものでもなければ、校章で見落とされた記載ミスという訳でもなかった。

これは想像の域を出るものではないが、恐らく調査隊の一行は乗用車にて当時の草の原峠を越えた。後に障害となる大木が根付く以前の未舗装路を、取材車両は駆け抜けて行ったのではないかと僕は睨んでいる。

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