教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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右手峠(21)

★★★

右手峠(うてとうげ)の取扱説明書

美作北部の県境に一際存在感の薄い峠がある。県道智頭勝田線と呼ばれる主要路で、曲りなりにも県界を跨ぎ一桁県道という肩書を持っている。しかし左右を志戸坂・黒尾越えの両雄に挟まれている為か、大方のドライバーの眼中には無いに等しい峠道で、実際に平日の通行量は主要県道とは思えぬほど閑散としている。断っておくが当物件は旧廃道に乏しい期待薄の峠道である。右手峠はその期待値に違わぬつまらなさで見事に応えてくれる訳だが、どうしても当路線を取り上げない訳にはいかない必要に迫られた。その理由は他でもない黒尾峠の存在感を際立たせる為だ。脇役あっての主役だとすれば右手峠は名脇役として外せない存在で、肉じゃがのじゃがいもに相当する必要不可欠な具材で、それ無くして肉じゃがは成立し得ない。新旧道の比較も大事だが並走路線との対比もまた重要で、両者の相乗効果は計り知れないものがあるし、峠道に対する見方が大きく様変わりするかも知れない。本件はセンセーショナルな旧廃区に頼らないレポートが成立するか否かの挑戦であり、またマイナー道路が主役に成り得るか否かの試金石でもある。黒尾峠のスピンオフとして右手峠を成立させるべく、県道の今昔を余す事なくここに封じ込める。

 

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◆再び小川と道路が交差するそこは紛れもない第二橋梁

橋梁も二度目となると特段の驚きもなく、冷静に粛々と観察するのみである。街道筋と河川は朽ちた木橋を発端に、以後幾度かの交差を繰り返す。迎える直近の交点に橋を跨いでいるような感覚はない。ただ足元を流れる清流が、そこが橋上である事を訴えている。

長年の落ち葉やら土砂やらが覆い被さり、表面が苔生した古橋は、すっかりその辺の山肌と同化しているが、沢筋が足元を潜り抜けて今尚役目を全うしており、現役で稼働する道路付帯設備である以上、その存在を見過ごす訳にはいかない。第二橋梁は一見すると前後の山道と全く見分けが付かない。

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◆足元を豪快に流れる雪解水が複合橋の存在を主張

もしも沢が干上がっていればその存在に気付かなかったかも知れない。それほど第二の橋は自身の存在をほぼ完璧なまでに掻き消し、周囲の景観に溶け込んでいる。たまたま雪解けの直後を狙った事でその存在に気付いたものの、別の機会であればスルーした可能性も大いに有り得る。

第二橋梁では丸太の存在は確認出来なかったものの、側面の出入口は三面が石で組み上げられており、やはりここも石橋が基礎となっている。表面の土の層がやや分厚い事から、足元には丸太が埋め込まれている可能性が大だ。逆説的に第一橋梁は埋設された丸太が剥き出しになっていると考えられる。

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◆基礎部分が石で組み上げられた構造は第一と瓜二つ

長年の風雨や雪害等によって表層が洗われ、露出した丸太が経年劣化で朽ち始めているのが第一橋梁であるとすれば、第二橋梁は限りなく現役時に近い形で現存しているとの解釈が成り立つ。勿論幅員は2m前後に及び、第二橋梁は恐らくというかほぼ確実にミゼットの通り抜けを許す。

路肩が安定していれば軽トラの通行をも許してしまうかも知れない第二の橋は、第一橋梁と200mも離れていない事から、年代規格共に同一と見るのが妥当で、最下層の石橋の上に土を被せ、その上に丸太を敷き詰め、更に土を被せた複合橋であるとみて間違いない。

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◆第二橋梁の直後に待ち構える50坪程度の謎の広場

その第二橋梁を渡り終えた直後に、普通車でも転回が可能な広い更地が目の前に現れる。そこは待避所にしてはやや広過ぎで、ここに至る過程で待避所らしき膨らみが一切認められない事から、その存在には大いなる違和感があった。だが広場に飛び込んだ瞬間、そいつの正体がはっきりと分かった。

間違いない、こいつは車両の転回場所である。何故ならこれより下界に通じる道が一回り広くなっているからだ。この広場を境に路の前後で規格が異なるのだ。道路規格の違い、それは現代車両がこの地点まで入り込んでいる事を意味する。但し広場にタイヤ痕は一切認められない。

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◆車両の転回場所のようにも映るが肝心のタイヤ痕は無い

肝心のタイヤ痕が確認出来ないので現時点で断言は出来ないが、この広場より幅員が一回り膨張しているという事は、下界よりこの地点まで後年開発が行われた事を意味し、一般車両の通行は兎も角最低でも工事車両が入り込み、その後林業関係者が利用した可能性は大いに有り得る。

繰り返すが現場にタイヤ痕は認められない。恐らく近年は全く使われていないのだろう。しかし現場の様子から一時期は現行車両が行き来していたのはほぼ確実で、切り出した木材を運搬する大型車が行き交うシーンが容易に目に浮かぶ。この広場は現代車両の引き返しポイント、即ち終着点なのだ。

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◆広場より先の路は道幅が気持ち拡がっている

道路としては広場の前後に車道が認められ、仮に下界からジムニーで突っ込んだとすれば、第二橋梁に挑戦する者が少なからずいるだろう。早晩物理的に渡橋が不可能な第二橋梁で行き詰まるが、そんな狂信的な挑戦者を僕は大いに歓迎する。何故なら四輪が通行可能か否かの証明をしてくれるからだ。

単車でも車道か否かの証明は出来るのだが、説得力に於いて十分な幅員をも証明する四輪の通行には敵わない。四輪の通行シーンをみて車両の云々を議論する余地はない。単車の走破でも尚純粋な街道論を唱える者も、皆一様に沈黙せざるを得ない。四輪の通行とはそれぐらいの説得力を持つ。

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◆この辺りまで来ると雰囲気は街道ではなく未舗装林道

広場の前後には明らかに車道規格の路が通じている。但し峠側と里側でその規格には微妙な差が生じている。今日我々が利用する最も狭い車道に比し峠側は一回り狭い。これをどう解釈するのかが問われている。

車道であって車道でない山道、この曖昧な規格の路に対し、郷土史家も明白な答えを見出せていないのが現状だ。論点が小さ過ぎて無関心なのであろうが、道路格闘家としては些細な出来事として片付ける訳にはいかない重要な案件である。

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