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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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右手峠(11) ★★★ |
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右手峠(うてとうげ)の取扱説明書 美作北部の県境に一際存在感の薄い峠がある。県道智頭勝田線と呼ばれる主要路で、曲りなりにも県界を跨ぎ一桁県道という肩書を持っている。しかし左右を志戸坂・黒尾越えの両雄に挟まれている為か、大方のドライバーの眼中には無いに等しい峠道で、実際に平日の通行量は主要県道とは思えぬほど閑散としている。断っておくが当物件は旧廃道に乏しい期待薄の峠道である。右手峠はその期待値に違わぬつまらなさで見事に応えてくれる訳だが、どうしても当路線を取り上げない訳にはいかない必要に迫られた。その理由は他でもない黒尾峠の存在感を際立たせる為だ。脇役あっての主役だとすれば右手峠は名脇役として外せない存在で、肉じゃがのじゃがいもに相当する必要不可欠な具材で、それ無くして肉じゃがは成立し得ない。新旧道の比較も大事だが並走路線との対比もまた重要で、両者の相乗効果は計り知れないものがあるし、峠道に対する見方が大きく様変わりするかも知れない。本件はセンセーショナルな旧廃区に頼らないレポートが成立するか否かの挑戦であり、またマイナー道路が主役に成り得るか否かの試金石でもある。黒尾峠のスピンオフとして右手峠を成立させるべく、県道の今昔を余す事なくここに封じ込める。 |
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◆道標には指差しのレリーフが認められる 昔は今の半分くらいしか道幅がなかった 地元のおいちゃんが知る一時代前の路は、我々が行き来する道よりも遥かにみすぼらしく、大型車の通行云々どころの騒ぎでなかった。普通車でさえ満足に通り抜け出来ない、そうした印象を強く抱かせるには十分な説得力を伴う。 事実この峠には乗合馬車や乗合自動車はおろか、路線バスが往来したというエピソードが皆無で、実際に交通史を紐解いてもそのような史実は存在しないし、沿線住民の誰もが公共交通機関の話になると失笑する。 |
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◆曲率半径30m前後の巨大なヘアピンカーブ 大概の箇所で普通車同士の擦れ違いを許す現在の路は、昭和の終わり頃、具体的には昭和40年代以降に拡幅整備されたものと推察され、それ以前はおいちゃんが言うように現在の半分程度の道幅しかなかったのかも知れない。それは歴史的史実とも符合する。 昭和20年代後半から息を吹き返したバス業界は、同30年頃から空前絶後の乗車率を誇り、以後10年に亘り栄華を極めた。その10年間を業界ではバス黄金期と呼ぶ。もしもその頃に右手峠が大型車の通行を許したならば、間違いなく峠越えの路線バスが成立したはずである。 |
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◆手入れの行き届いた杉木立を貫通する直線路 起点は因美線の智頭駅、終点は姫新線の林野駅もしくは片上鉄道の周匝駅で、山陰と山陽を最短で乗り継ぐ路線として成立してもおかしくはなかった。大局的にみて日本海と瀬戸内をほぼ一直線で繋ぐルートは、乗り継ぎの非効率を補って余りある短距離路線である。 一般車を巻き込む陰陽キャノンボールを実行すれば、奇を衒ったチャレンジャーが右手峠を越える梶並街道筋をチョイスしたとしても何等おかしくはない。縦貫線としては実利に適う現実解の路線で、敢えて交通量の少ない裏道に照準を合わせるのは、優勝を狙う者として当然の選択肢と言えるだろう。 |
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◆ドライブやツーリングのアクセントとなるスラローム区間 智頭急行鉄道や鳥取自動車道が成立した現在では、残念ながら右手峠は陰陽連絡線の選択肢には成り得ない。しかし時代を遡れば梶並往来は間違いなく最短最速路線に成り得た。考えてもみて欲しい、昭和30年代はどの路線も幅員は狭く、ほぼ例外無く路面は未舗装であった。 ライバルはどれも黒尾峠旧道状態にあったとの見方が妥当だ。そのような状況下に於いて大原・佐用を経由する智頭街道に比肩する梶並往来は、交通量極小の裏ルート的優位性も相俟って速達性としては申し分なく、智頭⇔梶並⇔勝田⇔林野・周匝と連絡するバス路線があって然るべきと考える。 |
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◆勾配の緩い杉木立の直線路を豪快に滑り降りる しかし実際にそのような路線バスが産声を上げる事はなかった。何故か?それは近年まで右手峠が大型車の通行を許さない狭隘路であったからだ。少なくともバス黄金期と呼ばれる昭和20年代後半から同30年代にかけて、この峠道は我々が思っている以上に狭く厳しい道程であった事は間違いない。 まだ初老とも言えない定年前後のおいちゃん達が言う昔とは、昭和40年代から同50年代にかけてで、どんなに遡っても彼等が語る昔とは東京五輪が開催された時分である。彼等はその当時の右手峠が現在の半分程度の道幅しかなかったと言っている。それが事実であれば路線バスの運行は成立し得ない。 |
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◆鳥取県側の峠下にあたる新田地区で第一人家を捉える 一時代前の峠道は狭かったという主張と、右手峠に公共交通機関の灯が燈らなかったという史実は矛盾しない。となると4m幅を誇る現道の半分しかなかったという村人の証言が現実味を帯びてくる。現在の2/3程度の幅があれば大型車の通行を許し、強いては路線バスの不成立という点で疑問が生じる。 従って実際はもっと狭かった。つまり峠道の幅員は大袈裟でも何でもなく限りなく2m幅に近かった事を予感させる。そこから想像するのは普通乗用車どころか馬車すら難儀する厳しい道程で、智頭⇔林野間の乗合馬車が不成立に終わった理由も何となく理解出来る。 |
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◆大師峠を越える鳥取県道296号線との交点 明治21年に鳥取⇔智頭間に乗合馬車が疾走するも、智頭以南に拡散するどの経路も乗合馬車の往来を許してはおらず、志戸坂と黒尾の両雄も例外ではない。果たして乗客は智頭から歩いて峠を越えたのであろうか?違う、人力車だ。 確かに乗客の多くは徒歩にて峠を越えたかも知れない。しかし一部の者は乗合馬車から人力車へと乗り継ぎ、明治20年代初頭にして車両による陰陽連絡を図った。その当時幾つかある経路の最右翼が右手峠であったのではないかと僕は睨んでいる。 右手峠12へ進む 右手峠10へ戻る |